『博士の愛した数式』を読んで以降、次に何を読むかが決まらない。分かり易いきっかけがあれば、その流れに乗るのであるが、どうも食指が動かない(触手が伸びない)。(そういえば、「食指が伸びない」は間違った日本後だと、雫井脩介の『望み』が小説の中で教えてくれた。)
まず、「2021/7/14 伊藤野枝」で紹介した、村山由佳の『風よ あらしよ』。これは、無料小冊子までは読んだのだが、単行本で650ページを超える大作と知って、手が出にくい。
次に、「【本】『博士の愛した数式』 小川洋子 新潮文庫 2005年発行」で紹介した、『新版 谷山豊全集』。こちらは、10,000円を超える価格に二の足を踏んでいる。
何度か家の本棚を眺めてみた。読んでない本ばかりだから、選択肢はいくらでもある。
取っつき易さを優先して、山中泉氏の『「アメリカ」の終わり 』を読みかけた。ただ、これもなかなか読み続ける気になれない。むしろ、YouTubeのもぎせかチャンネルの3回シリーズ「山中泉さんに聞く01~03」(2021年7月13日、15日、16日)の方を先に見てしまった。(「 山中泉さんに聞く01」はリンクをクリック。)
本棚から「読んで」と、語りかけてくる本がない。そこで、大学時代から社会人になりたての頃にはまった、太宰治でも読もうかと思った。我が家には、ちくま文庫の太宰治全集が1~10まで全巻そろっている。まあ、読むならやはり処女作の『晩年』からだろうと思い、<1>を手に取って『晩年』の「葉」から読み始める。
過去読んだときに引いた鉛筆のマークがあちこちにある。これも失敗に終わった。太宰の支離滅裂な文章に付き合う気になれないのだ。(『晩年』は若い頃に書かれた短編集をまとめたものであるが、私生活同様、作風も不安定で、実験的要素が強く読みにくい。)
次に、何度か挑戦しては挫折した、中島敦を読もうと決め、夕食時にも持ち歩きキッチンの上に置いた。次女に「何で中島敦なの」と言われた。彼女は、コミックス『文豪ストレイドッグス』のファンなので、気になったのだろう。そうか、中島敦と太宰の2人が主要キャラクターをなす同書と、図らずも同じ選択をしてしまったようだ。(ちなみに、私は『文豪ストレイドッグス』を漫画も小説も読んでいない。しかしながら、中島敦にスポットライトを当てた原作者の朝霧カフカには敬意を表したい。)
ただ、その中島もまたしても早々に中断してしまった。『古潭』という小説は、太宰治の『晩年』に似ていて、中島敦の初期の作品をまとめたものだ。今回ようやくその中の『文字禍』を読んで『古潭』が読了したが、それ以上進む気になれなかった。
『古潭』
- 『狐憑』
- 『木乃伊』
- 『山月記』
- 『文字禍』
この4編の中で、とにかく『山月記』の完成度が際立っている。私が中島敦を知ったのは、敬愛する高校の漢文の先生からであり、『山月記』を日本文学の最高峰と褒めちぎっていたので、作品の存在は知っていたが、実際に接したのは大分後である。
かなりの昔になるが「新潮カセットブック」というのがあって、その後「新潮CDブック」に代わった。一部カセットも買ったような気がするが、今は手元にない(実家にあるかもしれない)。一方、「新潮CDブック」は今でも10作品以上、我が家のCDラックに格納されている。
その『山月記』がとにかく秀逸だ。今では、アマゾンAudibleで『山月記』はいくらでも視聴することができるが、何がなんでも江守徹の朗読でなければならないと思う。
私は、文字からではなく音ではじめてこの作品に触れたのである。1997年発売とあるので高校を卒業してから大分後の話である。
今日は、結局何も腰を落ち着けて読むことなく一日を終えた。
ただ、夜遅くになって、安田峰俊さんの書いたノンフィクション『八九六四』が目に留まった。今さら64?(64については、「2021/6/4 天安門事件を回想する」を参照)という気もしたが、数ページパラパラめくってみると、何となく読めそうな気がしてきた。なぜこのタイミングなのかという疑問を持ちつつ、明日読んでみようと思った。