きっかけ(ネタバレあり)
改めてこの本を読みたくなった。理由はくもんの国語のGⅠ教材111に登場したからである。
教材には、老人のおかげで大金持ちになった若者が、お金が使い果たしてしまい 寝るところもなく町をふらついているシーンが掲載されている。老人は再び大金持ちにさせてあげようとするも、杜子春はそれを断る。人間というものにあいそがつきたと。そして、あなたの弟子にしてくださいをお願いする。
はて、小説の中で、杜子春が大金持ちになる筋書きなんてあっただろうか。この疑問を解決したかったことが、読もうとするきっかけとなった。
如何に何も覚えていないか
読み始めてみると、驚くことがたくさんあった。老人は2度も杜子春を大金持ちにさせたのである。そして、杜子春は何と2度も同じ過ちを繰り返し、散財してしまったのである。
仙人の修行のきっかけとなる、この大事なストーリーを忘れているのだから、人間の記憶というものは本当にいい加減だ。
さて、この物語の冒頭は、「元は金持ちの息子」として若者杜子春を登場させる。超がつく短編小説ですが、私はここも見落としていた。いろんな伏線が仕込んであると読むこともできそうだ。
杜子春の感慨
老人のおかげで2度金持ちになるも、散財して無一文になった杜子春は、老人にこういう。
「人間は皆薄情です。私が大金持になった時には、世辞も追従もしますけれど、一旦貧乏になって御覧なさい。柔しい顔さえもして見せはしません。そんなことを考えると、たといもう一度大金持になったところが、何にもならないような気がするのです」
これは、ゆっくり読んでみると、短い科白なだけにある種の疑問が湧いてくる。人間が薄情であることは、もう十分に分かったから、その体験はしたくないのか、あるいは、人の真心を望んでいるのか。この若者の気持ちになって考えてみると面白い。
続いて若者は、貧乏をして安らかに暮らしていくことはできないという。そして、仙術の修行をしたい、不思議な仙術を教えてほしいと頼む。
若者はなぜ仙術に興味を持ったのか。これも立ち止まって考えると興味深い。こういった、忽然と湧き上がる思いや望みは、今までの人生の中で無数に経験してきた。
でもそれが、本当の思いや望みかというと、多くの場合は違うのだと思う。少なくともこの場合、良心から出た望みではない。だから、もし仮に若者が仙術を身につけてしまったら、自分のもとを逃げて行った人間たちに、面白おかしく仙術を使ったのではないだろうか。
夢の中で杜子春は殺されていた
老人に峨眉山に連れられた杜子春は、ここで老人の言いつけを守り無言を貫いたところ、死んでしまったのである。それ以降の話は、抜け出した魂が地獄の底に下りていき、そこで出会う閻魔大王とのやり取りなのである。その点、杜子春は命を投げうってでも、約束は守ったのだ。それだけ、仙人になりたかった思いに嘘はなかったのだともいえる。
地獄と畜生道
地獄の入口で待っていた最後の拷問は、畜生道に落ちている父母に対するものであった。ここで、杜子春は母親に愛に触れ、衝動的に老人の言いつけを破る。この衝動的な行動こそが、真心なのだろう。良心・仏心と言い換えてもいい。
この場面設定が、地獄の入口であり、畜生道にいる両親を地獄道に連れてくるものであることに、ちょっと注目してみた。この物語は、はなから杜子春を仙人にしようなどとは思っていない、残酷な物語であるが、もっと深い意図が隠されているのではないか。
老人の意図は何だったのか
まず最初にこんな疑問が湧いた。老人はなぜ、3度もこの若者を金持ちにさせようとしたのか。(3度目は杜子春が断るので実現していない)。これは、正直よく分からない。
杜子春はおそらく、老人からどうしようもない若者に映ったのではないだろうか。(3度目を断ったのち、老人は「若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ」というが、それは本心ではだろう。)金持ちから無一文を2度経験して、人間の薄情を知ったというが、「そこじゃない!」と心の中で思っていたのではないか。
夢の中で殺されて、魂に地獄道を見せて、究極の仕打ちまで経験させた。そうしてようやく真心に気付いたのである。
両親を畜生道にいる設定にしたのも、なかなか興味深い。両親も欲界にいるのは、決してよい人生を全うした訳ではないことが示唆されている。冒頭で杜子春は元金持ちだったというから、生前は欲に目がくらんだのかもしれない。ただこれは、私の全くの想像にすぎない。
その後の杜子春
洛陽の西門にぼんやりたたずむ、元に戻った杜子春は、「何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです」と老人に言う。これぞ、まことの思いであり、まことの言葉であると感じる。
その証拠に、杜子春はもう老人に何も求めなかった。歩き出した老人鉄冠子は、最後に「幸、今思い出した」と枕詞をつけて、杜子春に泰山の麓の一軒家を譲る。おそらくここで穏やかな一生を過ごしたであろうことが想像される。
少年の頃、「お母さん」と叫ぶシーンが鮮烈で、同書は『蜘蛛の糸』よりも『トロッコ』よりも、心の響いた。それは、「意思を貫き通すよりも大事なことがある」という教訓として残った。あるいは、儒教的な「親孝行」の大切さ、人間としての徳目を教えられた気がした。
もちろん、そういう読み方で全然構わないと思うが、この年になって読み返してみて、そしてブログを書き始めてみて、意外な深読みにはまってしまった。
出典と芥川の変更
ここでは単に、Wikipediaの「杜子春(原拠との相違点)」を紹介するにとどめる。