文学★
紹介文
事故により80分しか記憶が持たない博士。家政婦の私。子供を一人にしてはいけないという博士の考えから、息子も博士の家に行くようになる。博士の何気ない質問から数学の美しい世界が広がり、博士の繰り返される言葉から、私たちは本当に大切なものが何かを知る。
きっかけ、紹介文より詳しく
この本は、大分前に購入していた。2013年5月の三十八刷版なので、おそらく中国駐在から帰任した直後に買ったのであろう。
記憶はあいまいだが、若いころから一貫して文章を書くことに興味を持っている自分は、帰国直後、仕事に余裕があったことから、文章の書き方のようなHow To本を探していた。はっきりと記憶しているのは、奥泉光という作家が書いた(共著含む)文章指南の本で、それを本屋で立ち読みした。
いい文章、悪い文章を直接引用して、好き放題思っていることを書いていく種の本だったと思う。当然ながら悪い見本に載ってしまうと、バッサバッサと切られてしまう。小気味の良さと明快に言い切る痛快さで、引き込まれる本であったが、買ってはいない。
悪い本の何が悪いかを指摘している本を読んだからといって、自分が同じ間違いを犯さないようにできるかどうかは、はなはだ自信がなかった。また、他人の作品の辛口批評を読むのは、どちらかというとゴシップ根性から来るもので、純粋に文章術を学びたいという心から発していないとも感じていた。
さて、今回この文章を書くに当たり、どの本を読んだのか検索してみたのだが、見当たらない。ただ、奥泉氏が夏目漱石を敬愛していることは間違いなく、今の作家が漱石と比べられてしまうのは少しかわいそうな気がする。
さて、前置きが長くなっているが、著書の小川洋子さん、残念ながら批判の対象となっていたのをよく覚えている。特に芥川賞を受賞した『妊娠カレンダー』がその矛先であった。
私の著者に対する印象は、ここで擦り込まれてしまった。ただ一方で、『博士の愛した数式』に対しては、文章ということではなく、ストーリーの着想のようなものは褒めていたような気がする。
本を買っている時期から推測するに、この流れで私は『博士の愛した数式』を買ったのだと思う。あれから、8年が経過してようやく、読むに至った。そのきっかけはというと、数日前、朝起きた時に、寝床の近くに置いてある本箱に並んでいたこの本が、ずーっと目に入ってきたからである。ただ、それだけだ。それだけだが、「読んでみよう」と思って、その本を棚から引き出したのだから、今までになかったことだ。
冒頭から面白い予感がした。√-1(ルートマイナス1)はという問いかけに対して、私が「そんな数は、ないんじゃないでしょうか」と答えると、博士は言う。「いいや、ここにあるよ」といって、彼は自分の胸を指差した。
あるいは、靴のサイズを聞かれ、「24です」と答えると、「ほお、実に潔い数字だ。4の階乗だ」と。(4の階乗とは1×2×3×4である。)
こんな調子である。

作品を読みながら思ったこと-引用あり
第1回本屋大賞受賞作、奇跡の愛の物語といった世間の下馬評に加え、冒頭で得た期待感から、わくわくして読み進めた。その過度な期待感が、ちょっと邪魔をしてしまったというのが、正直な読後感である。
まず、数学の美しさを知るために、本書で紹介されている数々の発見を、メモに書く止めておくだけでも意味があると思う。
電話番号を「576の1455」と教えると、その回答は、「5761455だって?素晴らしいじゃないか。1億までの間に存在する素数の個数に等しいとは」。
私の誕生日の二月二十日と、博士が大学で学長賞を取ったときのNo.284を結び付け、220と284は友愛数だという。220の約数(自分自身を除く)の合計は284、284の約数(同左)の合計は220。滅多に存在しない組み合わせだ。フェルマーやデカルトも一組ずつしか見つけられなかったらしい。
私は、家に帰って友愛数を発見するために三桁まで進めてみるが、見つからない。その代わりに一つだけ小さな発見をした。28の約数(自分自身を除く)を足すと28になることを。
後日これを博士に報告すると、それは完全数だと教えてくれる。
そして、博士がファンなのはタイガースのエース江夏豊だ。江夏の背番号28は完全数なのである。
ちなみに完全数は、6、28、496、その次は8,128、その次は何と33,550,336、その次は8,589,869,056だ。
8千から3355万まで、桁が3つの違っている。そこまで完全数は出てこないのに、3355万から85億は桁が2つで友愛数が出現する。この不規則さもちょっと面白いし奥が深い。
物語については、ここでつまびらかにしたくない。「博士と家政婦の私と息子のルートの3人の物語」。そして、博士には80分間の記憶しかない。これで十分な気がする。
一方、ふーっと心の中に留めておきたい博士の言葉がいくつかあるので引用したい。
「本当に正しい証明は、一分の隙もない完全な強固さとしなやかさが、矛盾せず調和しているものなのだ。たとえ間違ってはいなくても、うるさくて汚くて癇に障る証明はいくらでもある。分かるかい?なぜ星が美しいか、誰も説明できないのと同じように、数学の美を表現するのも困難だがね」(P27)
文章題であれ単純な計算であれ、博士はまず問題を音読させることからはじめた。
「問題にはリズムがあるからね。音楽と同じだよ。口に出してそのリズムに乗っかれば、問題の全体を眺めることができるし、落し穴が隠れていそうな怪しい場所の見当も、つくようになる」(P56-57)「数学のひらめきも、最初から頭に数式が浮かぶ訳ではない。まず飛び込んでくるのは、数学的なイメージだ。輪郭は抽象的でも、手触りは明確に感じ取れるイメージなんだ。それと似ているかもしれないね」(P121 )
「では君は、花や星のように、0は人間が生まれた時にもう既に目の前にあったと思っているのかい?何の苦もなくその美しさを手に入れることができたのだと?ああ、何という誤解だ。君は人類の進歩の偉大さに、もっと感謝すべきだ。いくら感謝してもし過ぎることはない。罰は当たらんよ」(P218)
自分にできるのは、ほんのちっぽけなことに過ぎない。自分ができるのならば、他の誰かにだってできる。博士はいつも、そう心の中でつぶやいている。
『博士の愛した数式』 小川洋子 新潮文庫
「お祝いをしましょう」
「祝いなど、必要なと思われるがね」
「頑張って一等賞を獲った人を、皆で祝福すれば、喜びが倍増します」
「僕は別に、喜びたくはないんだよ。僕がやったのは、神様の手帳をのぞき見して、ちょっとそれを書く写しただけのことで……」(P237)
博士が発する一言一言が、ちょっと神秘的で深淵で、ときにはっとさせられる。何事においても、「美しい」ということは本当に大切なことだと思う。私が33歳で会計士を目指したのも、諸事情を考慮した末の決断だったが、その根源は、ゲーテの「複式簿記こそ人間の精神が生んだ最も美しいもののひとつであり最高の芸術である」という言葉を知ったからかもしれない。
本を読む中で、博士の兄の嫁で未亡人の義姉の態度が、読者の気に障るように書かれている。それも最後まで読み進めていただけると、ある程度謎が解けるようになっている。文庫本で291ページの小説であるから、手軽に読める。
この小説は、博士からもっといろいろな知恵や真理を引き出すこともできたと思う。そうするならば、400ページや500ページの大作になったであろう。でもそんな風に仕立てたら読者はついてこないかもしれない。このような自分だけの妄想をしながら、本を読み終えた。
追補:なんとなく消化不良な感じが残っている。その理由が何か、ちょっと分かったので追記する。それは、なぞがいくつか放置されているからだ。例えば、歯が腫れあがっていたため、私は博士を歯医者に連れて行ったが、そこでものすごく不機嫌になったことが書かれている。しかし、その謎は明らかにされていない。
もう一つ。後半に義姉と私がもめる場面がある。お互いの言い合いがクライマックスに達すると、博士がメモを食卓の真ん中に置いて出ていくシーンがある。そのメモには≪eπi+1=0≫と書かれていた。これは、オイラーの公式と呼ばれている。そしてこのメモがすべてを解決してくれるのである。
その後、オイラーの公式について、私が思いをはせる記述が何度も出てくる。しかし、なぜあのシーンをこの式が解決したのかは、分からないままであった。
また、小説の最終章11には、フェルマーの最終定理が証明されたニュースが書かれている。そこに、「ワイルズの証明の核心には、日本人数学者、谷山豊と志村五郎が打ち建てたアイデア、谷山=志村予想があった事実も、控えめながら記されていた。」(P270)とある。
サイモン・シンの『フェルマーの最終定理』は昔読んで、大変感動した。そこにも当然谷山と志村が出てくるが、谷山が全く理由が分からぬまま、若くして自殺することが触れられている。この部分を読んで、それを思い出した。そして谷山豊で調べると、新たに衝撃的な事実が分かった。婚約者が後追い自殺しているのである。
谷山を知りたくなった。彼を知る手がかりは唯一『新版 谷山豊全集』しかない。かなり高いのだが、多分手を出さざるを得ないであろう。