文学★★
紹介文
盲目の田村は、お豊の唯一の客であった。お加代はいつも帰りに駅まで田村を送るのであった。お加代は田村に何度かはっとさせられた。まるで見えているかのような反応をするからだ。田村が来た最後の日に、お加代はさびしさを感じて次の電車で田村を追いかけた。
作品を読みながら思ったことー引用あり
ストーリーはいたって単純だ。ただ、何となくこの小説を紹介したいと思ったのは、この小説には独特のリズムがあって印象的だからである。
一つだけ例を挙げたい。以下に出てくる彼女は、お加代の姉のお豊である。
彼女は盲目に子供を産ませられることを恐れていた。盲目の子供が生まれはしなかろうが、その子がまた盲目の女房になりそうな気がしたからだった。全く彼女が盲目の女房になったのは母が盲目だったからのことだ。盲目の母は盲目のあんまの外にはつきあ合いがなく、だから目明きの男を娘の婿にするのが恐ろしかったのだ。その証拠には、娘の亭主が死んでからいろんな男が家へ来て泊まっていくようなことになってしまったが、それがまた皆盲目だった。盲目から盲目が聞き伝えてくるのだった。盲目でない男に体を売れば直ぐにも警察にあげられそうな気持が一家にしみ渡ってしまった。盲目の母を養うには盲目から取った金でなければならないかのようだった。
『掌の小説』~盲目と少女 川端康成 新潮文庫 P260-261
最初Audibleで聴いてから、作品を読んだので、この件(くだり)のリズムが妙に頭に残った。
川端康成は、比較的繰り返し表現を使う作家だと思う。ここでは、短い文章の中に、盲目という言葉を13回も使っている。
『人間の足音』という作品では、「~の両足」という文章を17回続けて書いたのち、「両足、両足、両足。」と書いている。これほどまでに、両足を形容する文章を書き連ねるのは、名人の技量がない限り不可能だ。
さて、この小説。ここで紹介するために、繰り返し読んで、ようやく誤解に気づいた。姉のお豊も盲目だと思い込んでいたが、盲目だったのはお豊の死んだ亭主であった。そうでなければ、この小説のストーリーは全く流れないのだ。田村が来なくなるのは、母親が死んだからである。
それともう一つ。私はお豊の仕事はあんま師(しかも盲人あんま師*)だと思っていたが、これも大いに疑問だ。「あんま」という表現が2回ほど(上記引用に1回)出てくるが、それは、母の知り合いの文脈である。元亭主がそうだったのかもしれない。となると、田村はお豊の客という設定だが、「体を売れば」という表現そのままの商売だったのかもしれない。
小説から大分ずれたところのオチで終わってしまうが、思い込みというものは本当に怖いものである。
*中国の大連に駐在していた頃、「盲人按摩」のお店がいくつかあった。すべて盲人のあんま師であった。これも私の思い込みに加担した。