文学★★★
紹介文
かつて瓢箪に激しく熱中した子供の話を描く『清兵衛と瓢箪』。帰りの電車賃を節約して寿司を食べようとして足りずに恥ずかしい思いをした小僧が、ある日不思議な体験をする『小僧の神様』。志賀直哉の初期から中期に書いた青少年向けの作品13編を収録。
きっかけ、紹介文より詳しく-引用あり
先日読んだばかりの、谷崎潤一郎の『文章読本』に、志賀のことが文章のお手本として書かれていたので、改めて読み直した。
この文庫本は、当時小学校高学年であった長女の誕生日プレゼントして買った本である。あまり本を読まない子供に、どうしても読んでほしいという思う本を吟味して、3冊ほど買った。そのうちの1冊である。もともと、志賀は新潮文庫を持っていたが、自分が学生時代に読んだ本はあまりに古くて赤茶けていたし、子供向きでないと思われる収録作品もあったので、ネット検索してこの1冊を選んだ。
収録作品は、以下の通り。
菜の花と小娘
網走まで
荒絹
母の死と新しい母
正義派
清兵衛と瓢箪
范の犯罪
城の崎にて
赤西蠣太
十一月三日午後の事
小僧の神様
焚火
真鶴
娘に買ったとき、すでに何作か読んでいた。しかしながら、表題作2作品以外は、ほとんど覚えていない。『城の崎にて』などは、何度読んだのであろうか。それでも、病気療養で城の崎温泉に行ったときの話以外、覚えていない。
今般、順番に読まなかった。
比較的有名な『網走まで』を読んで、「ふーん」というあっさりとした心持ちが残った。ここに志賀直哉の簡潔な文体や感情の率直な表現が示されているのかと思えば、なるほどそうかと思うが、事前にそう言われなければ、今後読み返すこともなかったであろう。これは青森行きの汽車の中での出来事である。女の人が連れた男の子がいろいろだだをこねるので、何となく読んでしまうが、特にこれといったドラマは隠されていない。
『清兵衛と瓢箪』は、最後にあっと言わせるオチがあるのだが、私はこういう話が好きだ。「この人すごい!」と思った人が、本当にすごかったということを裏付けるような話が。
私がこの本に出会ったのは、高校生以降だったと思う。後述する新潮文庫には収録されていなかったので。このときの感動が忘れられない。
自分には一芸に秀でるといった要素はないので、「清兵衛」とはまさに正反対であるが、彼のような生き方にあこがれている。(といっても、文庫にしてわずか9ページの短編小説であることをお断りしておく。)
同時に、今の時代に「清兵衛」が生きていたら、もっと生きやすかっただろうと思うと残念な気にもなる。最後のオチで、留飲を下げたのは私だけではないと思う。
作品を読みながら思ったこと-引用あり
13編の中で最も印象の薄い作品を2つあげると、『真鶴』そして『焚火』だ。この作品は読んで2日しか経っていないのに、もう何が書かれていたか、かなり忘れている。
『真鶴』は、小田原まで下駄を買うために十二、三になる兄が弟を連れて歩く間の話。兄が下駄を買わずに水平帽を買ってしまったこと、弟を連れながらも謡曲ひきの女性のことを考えていたこと、などが記される。そして家に帰り、すっかり寝込んでしまった弟を母親の背に移そうとすると、わがままを爆発させる。
兄は志賀本人なのであろう。弟に対するうしろめたい気持ちを小説として書いたのであろうか。この題材を短編小説として仕上げてしまう技量がすごいということであろうか。
『焚火』は、大人4人によるある種の肝試しを描いたものと言えようか。最後にKの不思議な話が披露され、物語に一つの展開が示されるが、それまでは、ある晩に舟に乗る前と、乗った後のことが淡々と描かれる。
それから自分は横になって本を読んだ。そして本にも厭きたころ、そばで針仕事をしていた妻が、
『焚火』 志賀直哉 集英社文庫 P183
「小屋にいらっしゃらない?」と言った。
小屋というのは近々に自分たちが移り住むために、若い主のKさんと年を取った炭焼きの春さんとで作ってくれる小さな掘立小屋のことである。
Kさんと春さんとは便所を作っていた。
「わりに気持のいい物になりました」とKさんが言った。自分も手伝った。妻も時々手を出した。
少し引用してみた。谷崎の言う、「ただその文章の要領は、叙述を出来るだけ引き締め、字数を出来るだけ減らし、普通の人が十行二十行を費やす内容を五行六行に壓縮する」とは何を指すのか。想像するに、それはこの文章に表れている。妻が小屋に行かないかと提案し、小屋とは何かを説明した後に、すぐ(提案を受け入れて)小屋に行った後のことを書いている。さらっと読むと読み飛ばすが、ゆっくりと読むと逆に「えっ?」と不思議に感じる。それでも続きを読めば、前後はつながるのだから、説明的にならないだけ簡潔でよいということであろう。
それに続く、「言った。手伝った。手を出した。」も非常に簡素だ。
『小僧の神様』は確か、小学校の自分通っていた塾の国語の問題で一部が出題されたと思う。すごく興味を持ってその時分に読んだはずだ。これはまた、『清兵衛と瓢箪』とは違った意味で、最後のオチが洒落ている。ストーリーがあって興味をひき、かつリズムもよく、温かい人間たちが描かれている。これは、何度でも読み返したい名作である。
Aは小僧に鮨をご馳走してやったこと、それから、後、変に淋しい気持ちになったことなどを話した。
『小僧の神様』 志賀直哉 集英社文庫 P175-176
「なぜでしょう。そんな淋しいお気になるの、不思議ネ」善良な細君は心配そうに眉をひそめた。細君はちょっと考えるふうだった。すると、不意に、「ええ、そのお気持ちわかるわ」と言い出した。
「そういうことありますわ。なんでだか、そんなことあったように思うわ」
「そうかな」
「ええ、ほんとうにそういうことあるわ。Bさんはなんておっしゃって?」
「Nには小僧に会ったことは話さなかった」
「そう。でも、小僧はきっと大喜びでしたわ。そんな思いがけないご馳走になれば誰でも喜びますわ。(後略)」
妻とAの会話である。今の時代このような会話をする夫婦はいるのかなと思う。川端康成の小説を読んでも感じるのだが、夫婦の会話の在り方が今と違うのが新鮮だ。
旦那を立てるという言葉があるが、それに気を悪くする夫はいないであろう。一方で、それが当たり前という感覚になると、男尊女卑という話につながっていく。
実は、この集英社文庫の13篇の選出は、実に秀逸だと思う。ここには、妻や女性を低く見る嫌な主人公は一人も登場しない。一方で、同時代に書いた『佐々木の場合』や『好人物の夫婦』には、その嫌なにおいがする。少し後に書いた『痴情』などはよりはっきりとする。
先に、『小僧の神様』を小学校の時分に読んだと書いたが、当時文庫と言えば(自分の中では)新潮文庫だった。なので、当時自分が買った本は、新潮文庫の「小僧の神様・城の崎にて」であり、そこには、『佐々木の場合』『好人物の夫婦』『痴情』が収録されている。
当時、表題作以外も読もうとしたはずだが、断念したのは明らかである。冒頭に収録されている『佐々木の場合』は読んだ気もするが、読んでも理解できなかったであろう。
理解できなかったという意味では、『城の崎にて』も同様である。小学生に「死に直面した若者の心情」が分かるのはちょっと無理であろう。それでも、この小説はあまりに有名なので、中学受験の国語の物語文にも出題されていたように思う。
蜂の死骸と、鼠のもがきと、蠑螈(いもり)の不慮の死に直面した自分の心持ちは、この年になると非常に味わい深い。この作品を書いたときの志賀直哉は34才なので、そこに悲壮感はない。
最後に、『范の犯罪』について触れたい。この作品は異色だ。
自分は「范の犯罪」という短編小説をその少し前に書いた。范という支那人が過去の出来事だった結婚前の妻と自分の友達だった男との関係に対する嫉妬から、そして自身の生理的圧迫もそれを助長し、その妻を殺すことを書いた。
『城の崎にて』 志賀直哉 集英社文庫 P106
これ出典の間違いではない。『城の崎にて』を読み返すと、こんなことが書かれている。
ここで面白いのは、「その妻を殺す」と書かれていることだ。実際の小説は、この殺人事件が「過失」なのか「故意」なのかに、焦点を当てている。今の時代であれば、十分な動機があるのだから、故意の殺人事件として有罪判決を受けるであろう。果たして小説はどんな結末を用意したのか。(Wikipediaで「范の犯罪」を検索すると見事にヒットするが、これは是非読んだ後にリンクをクリックしてほしい。)