伝記・歴史・地理★★★
紹介文
イタリア近現代史専門の大学教授によるイタリアの英雄「ガリバルディ」の伝記。ガリバルディ神話ではなくできる限り生身の実像に迫ったという。神出鬼没、東奔西走、一心不乱、直情径行、天真爛漫、清廉潔白。教科書で習う薄っぺらい知識が誤解を与えていることを知る一冊。
きっかけ、紹介文より詳しく-引用あり
皆さん、ガリバルディの名前を憶えておられるだろうか。私は、高校の世界史で習って以降、漠然とこの人物の名前と武勇伝を、ずっと頭の中に留めていた。それは近世の「イタリアの統一」という文脈の中で、晴天の霹靂の行動を取った偉人・英雄・変人という形で刻まれていた。
これは、『詳説世界史B』 山川出版社 2005年発行 の写真である。おそらく、自分が習った頃の教科書はもう少し詳しかった気がする。なぜならば、これではガリバルディの領土献上が、全然ドラマチックに書かれていないからだ。ただ、もしかしたら教科書はこの程度だったかもしれない。武勇伝を知ったのは、駿台予備校の大岡俊明先生の授業だったのか。いや、でも確かに教科書を読んで、「こんな人物がいたのか」と驚いた遠い記憶がある。
長年頭に残っていたストーリーはこうである。ガリバルディは、(理由は忘れたが)シチリア人解放のために、赤シャツ義勇兵を率いて、当時支配していた国(「両シチリア王国」というが、国名は覚えていない)に対して武力蜂起を実行した。あっという間に破ってローマぐらいまで北上した(正確にはナポリ)。結果、北部イタリアを併合していた国(「サルディーニャ王国」というが、国名は覚えていない)と、南北で2分されることになった。ここで、イタリア統一のための最終戦争が行われると思いきや、何とガリバルディは、征服した南イタリアをサルディーニャ王にあっさり献上して、歴史の表舞台から姿を消すという話である。ガリバルディにとって大切だったのは、自分が国を支配するのではなく、イタリアを統一することだったのである。
さて、今なぜこの本を読んだのか。そのきっかけは、本屋(お茶の水の丸善)でMundi先生の『一度読んだら絶対に忘れない世界史人物辞典』を見かけたからである。
私は昔から歴史上の人物に興味がある。「人に興味がある」と言った方が正確だと思う。なので、歴史でも、そこに登場する人物に惹かれる。本屋で手に取って、ガリバルディのことは何て書いてあるのだろうと思って読んでみた。
やはり、記憶にそう誤りはない。この男は尋常でないという思いがふつふつと再燃した。Mundi先生のかなり詳細な解説は、私の興味をさらに引いた。(その後、Amazonのサマーセール中かつKindle50%OFF時に購入したので、一部だけご紹介する。)
シチリア島に渡ったガリバルディは兵力を増強しながらイタリア半島へ進撃し、ついにはナポリを占領してかつてのシチリア王国、ナポリ王国と言われた「両シチリア王国」を征服したのです。
『一度読んだら絶対に忘れない世界史人物辞典』~ガリバルディ 山﨑圭一 No.4203
北からはヴィットーリオ=エマヌエーレ2世のサルデーニャ軍が南下し、南からはガリバルディの「赤シャツ隊」が北上しています。両軍はついに相まみえることになりました。一度はともに戦ったものの、けんか別れをした格好になっている両者なので、緊張感が漂いました。もしかすると、イタリアの南北を真っ二つに割る「関ケ原」になるかもしれません。
しかし、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世にガリバルディは叫んだのです。「イタリア王がここにおられるのだ!」と。 占領したイタリア南部を譲り、ガリバルディは身を引いたのです。ガリバルディにとって、最も大切なのは自身の天下ではなく、イタリアの統一だったのです。 南アメリカとイタリアで活躍した「2つの大陸の英雄」ガリバルディは晩年、勲章や名誉も断り、地中海のとある島で隠居生活を送ったといいます。
ちなみに、Mundi先生はYouTubeでHistoria Mundiというチャンネルで世界史講義をしている。(興味のある方はリンクをクリック。138 イタリアの統一 世界史20話プロジェクト第14話)
その後、別の本屋(おそらく三省堂神保町本店)でこの本を見かけたのである。(すぐではない。1か月以上空いている。)
そのとき、他にも読む本がたくさんあるし、学者さんの書いた本はあまり面白くないんだろうなという思いが交錯したのだが、「いや、タイミングは今でしょ」と踏ん切りをつけて買ったのである。
読み終えて、本当にすばらしい本だと思う。ガリバルディの神話ではなく、そこには人間ガリバルディが書かれていた。
作品を読みながら思ったこと-引用あり
ガリバルディはニースに生まれた。著者はこのことを、「イタリア人としてではなく、フランス人として生まれた。」と書いている。彼が生まれた1807年は、フランスの領土であったからだ。ただ、ここで「今ニースってどこの国」という疑問が浮かび上がる。依然フランスの都市だ。これはどういうことか。この歴史の事実は、彼の人生と大きく関係している。
簡単に言えば、ナポレオン戦争が終結し、1815年のパリ条約により、ニースはサルディーニャ王国に割譲されたのである。つまり、ガリバルディが物心ついてからのニースは、イタリア領土であったということだ。
そして、1860年プロンビエールの密約により、ニースはまたフランスに返還されてしまうのである。これは、当時の首相カヴールが決断したものである。
カヴールは第一次独立戦争の敗北から重要な教訓を得ていた。それは何か。それはサルディーニャ王国が独力でイタリアの独立と統一を実現することはできないということである。カルロ・アルベルト王が言ったという、「イタリアは自らなす」の否定である。
それではイタリアは永遠にオーストリアに隷属し続けるのか。いや、ウィーンに対抗できる同盟国を見出し、オーストリアと戦いを交える時に外交的に、軍事的に応援してくれる強国を見出さねばならない。それはどの国か。それはナポレオン三世のフランスしかない。
『ガリバルディ』 藤澤房俊 中公新書 P92-93
このような背景があって、カヴールは1859年第二次独立戦争を仕掛け、フランスとの連盟軍がオーストリアに勝利した後、ロンバルディア地方を得て、協力の見返りに密約通りニースをフランスに割譲した。
ガリバルディは、第二次独立戦争時、アルプス猟騎兵隊の大将として戦った。ガリバルディを将軍に招いたのはカヴールである。その結果、生まれ故郷を失ってしまったのだ。ガリバルディは、怒りと悲しみを持ってカプレーラ島(※1)に戻ったという。(なお、それ以降現在に至るまで、ニースはイタリアに割譲されることはなかった。)
※1:ガリバルディは、兄が遺した遺産と船乗りで蓄えた資金で1855年孤島の一部を購入した。「昔からの夢であった農耕の日々を過ごす、終の棲家とするため(P87)」と書かれている。
失意のガリバルディが最も輝くのは、その直後の1860年のことである。当時南イタリアとシチリアは、両シチリア王国といい、スペインのブルボン家が統治していた。マッツィーニ(※2)の指示でシチリアに戻り革命の可能性を探っていたクリスピを含む、「シチリアの愛国者たちが望んでいたのは、マッツィーニでもカヴールでもなく、ガリバルディであった(P119)」。
シチリアの独立と自治を実現するために、すでに伝説的な英雄となっていたガリバルディは不可欠であった。シチリアの民衆は、自由をもたらす白馬に乗ったガリバルディの登場を待ち望んでいた。
『ガリバルディ』 藤澤房俊 中公新書 P119
このように、シチリア遠征は、ガリバルディの発案ではなく、クリスピなどシチリア出身の民主主義者に嘆願され、義侠心と冒険心にあふれる愛国者ガリバルディに受け入れられたものである。
※2:マッツィーニは、教科書にも必ず出てくる大変有名な革命家・政治家であるが、この本では影が薄い。ガリバルディは南米時代マッツィーニを師と仰ぎ憧れていたが、帰国時に会って尊敬の念を失ったようである。実際に改めて調べてみると、マッツィーニは、ローマ教皇がピウス9世がローマを脱出した後、一瞬の間存在したローマ共和国の最高権力者であったが、フランスに敗れてその地位は3ヶ月で失われている。その後歴史の表舞台に出ることはない。
その後は、「ヴィットーリオ・エマヌエーレとイタリア」というスローガンを掲げ、義勇兵を集めて「千人隊」を組織し、シチリア島西岸のマルサーラに上陸したのが1860年5月11日、それからナポリに入場したのが9月7日であるから、わずか4か月で南イタリアとシチリアを両シチリア王国から奪還してしまったのである。漫画のような世界である。
ここで、スローガンがまた一つの疑問を呈する。「ヴィットーリオ・エマヌエーレ」とは、サルディーニャ王国の国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世のことではないだろうか。サルディーニャ王国には憎っき戦略家・謀略家である首相カヴールがおり、彼と手を切ってシチリアに渡ったのではないか。
この点について、著者は「ガリバルディとヴィットーリオ・エマヌエーレ二世の関係」という項で、「ここに、ガリバルディと国王は秘密の糸で結ばれていたことを推測することができる(P145)」と書いている。
カヴールはガリバルディの進撃を恐れていた。南イタリアに共和主義政権が誕生するのは、サルディーニャ王国によるイタリア統一を阻むものだし、特にローマへの進軍はフランスとの同盟関係に重大な打撃を与えるため、絶対に避けなければならなかった。(ややこしいが、ローマだけは「ローマ教皇領」として、「サルディーニャ王国」は併合できていなかった。)
そのため、カヴールは国王に、ナポリに入城しローマに進軍しないよう手紙を書かせたという。
一方で国王は、ナポリ王がシチリアの明け渡しを拒否するならば、ガリバルディの行動は自由であるという手紙も書いている。
また、ガリバルディの方も国王宛てに銃剣付きの銃一万丁を求め、国王はその要求に応えるよう内務大臣に指示しているのだ。
これで、最後の結論が見えてくる。ガリバルディにとっての大義は「イタリアの統一」であって、それを果たすために全精力を注いだのだ。初めから、南イタリア・シチリアをヴィットーリオ・エマヌエーレ二世に献上しようとしていたのかもしれない。
尤も、イタリア統一の最後の過程について、著者はガリバルディに辛口だ。サルディーニャ王国への併合に関して、民主主義者と自由主義者の間で意見が割れた際、ガリバルディは投げやりな態度でカプレーラ島に戻ってしまった。そのため、カヴールが短兵急に住民投票を行って、併合が決まったという。
それによって、ガリバルディが夢に描いていたように、征服した両シチリア王国を敬愛するヴィットーリオ・エマヌエーレ二世に献上するのではなく、住民投票による意思表明によって、南イタリア・シチリアはサルディーニャ王国に併合されることになった。
『ガリバルディ』 藤澤房俊 中公新書 P152
実際の歴史は、教科書やMundi先生が本やYouTubeで語っている武勇伝ほど劇的で美しいものではなかったのである。
さて、ガリバルディの魅力を書きだしたら切りがない。イタリアの第一次独立戦争に参加するためにイタリアに戻って来たガリバルディだが、その名前はすでに南米で認められていた。本書ではⅡ章の「雌伏の十三年間」で紹介されている。28才から41才の期間である。40才になったばっかりの人は、まだまだこれからが人生の本番である。
私が個人的に注目したのは、Ⅳ章の「戦士の休息」である。ここは43才から51才の8年間だ。この間、チュニス、モロッコのタンジール、ニューヨーク、中南米、ペルー、中国広東、ロンドンを船長として渡り歩いている。(しかもそれは、1854年5月までである。)どれほどの期間駐留していたかは不明であるが、「休息」というのは、歴史の表舞台からの休息に過ぎない。実際のその精力的な活動ぶりは人並み外れている。
イタリア統一後も、ガリバルディは常にヒーローであった。第三次独立戦争、ローマ解放の準備活動、ローマ進軍開始、逮捕、カプレーラ島軟禁からの脱出。
そして1867年から1870年間、小説の執筆に専念したという。理由は息子たちがつくった借財の返済のためである。
1870年、フランスに向かい、人生最後の戦いに臨む。今まで苦汁を飲まされ続けたフランスのために、「共和制という大義」のために戦いに行ったのである。
著者は、フランスの歴史家ミシュレの以下の言葉を引用している。
私はヨーロッパで一人の英雄を知っている。ただ一人だけ。二人とは知らない。その全生涯が一つの伝説である。フランスを恨む十分な理由を持っており、ニースを取り上げられ、アスプロモンテでもメンターナでも撃たれたというのに、なんと、この男はフランスのために身を捧げたいと願っているのである。
『ガリバルディ』 藤澤房俊 中公新書 P205
最後に「晩年のガリバルディ」の章から、以下を引用したい。私は『レ・ミゼラブル』で有名な小説家であり政治家のヴィクトル・ユーゴーの短い言葉に、涙が出そうになった。
火葬にすること、火葬を終えた後に死去を公表することという、ガリバルディの遺言は守られなかった。ガリバルディの意志に反して、議会はイタリア王国の樹立に貢献したガリバルディに対して三つの措置を決定した。第一番目は未亡人および相続人に終身年金を与えること、第二番目はローマにモニュメントを建立すること、第三番目は葬儀を国葬とすることである。
国王ウンベルト一世は、「父(ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世)は、少年時代のわたしに、市民と兵士の徳を持つ将軍を尊敬するように教えた」と、ガリバルディの家族に弔電を打った。ヴィクトル・ユーゴーは、「イタリアでもフランスでもなく、世界が喪に服している」と述べている。
『ガリバルディ』 藤澤房俊 中公新書 P219
著者が「おわりに」で書いた、「英雄ではなく、強さと弱さを併せ持つ存在、どちらかというと強さより弱さに比重をおいて、人間ガリバルディを書いてみた(P231)」という本人の思い通り、この本にはガリバルディの良さも悪さも、すべてが丸ごと描かれている。
それでも、著者のあふれ出るガリバルディ愛がすごすぎて、却ってガリバルディはむしろ神格化されてしまったかもしれない。少なくとも私に対しては、逆効果であったようだ。
同じく「おわりに」から、以下を引用して締めとしたい。
ガリバルディの特質を思いつくままに挙げてみよう。心が熱く、邪気がない、単純で一面的な考え方しかできない、直感が熟慮をはるかに上回り、直情径行で、熱心にかられて行動に走る、向こう見ず、意味もなく勇敢で、無謀な行動主義者で、非常時型の人間であった。また、私利私欲や地位声望を求めず、清廉潔白で、天真爛漫な、大きな駄々っ子的特質は、民衆を惹きつけてやまない魅力となった。それだけに、かれは、理論家や政治家にはできなかった、困難な時代を切り開くことができたのも事実である。
『ガリバルディ』 藤澤房俊 中公新書 P232