文学★★
紹介文
時代は昭和30年の大阪。食堂を経営する一家の息子である信雄は、船上で暮らす喜一と仲良くなる。当時の時代背景を色濃く反映しながら、子供たちの交流を描いた『泥の河』。親父が死んだ年の4月に大雪が降った。大工の爺さんに連れられて螢の大群を見に行く『螢川』。氏の代表作2作。
きっかけ、紹介文より詳しく
子供が出版社主催のアート・コンテストで賞をもらった。賞品として、本を20冊プレゼントしてもらえることになった。親である私が子を差し置いて、最近の売れっ子作家の中から、裏表紙を読んで面白そうなもの20冊を選んだ。そのうちの1冊。(当面はこのシリーズを書いていく予定。)
宮本輝初挑戦。「螢川」は芥川受賞作品なので有名だが、「泥の河」も同じ1977年に書き上げ太宰治賞を取ったというのは知らなかった。私は、宮本輝と言えば、ドラマ化された「青が散る」というイメージが強い。ドラマは見なかったが、主題歌を松田聖子が歌っていたからよく覚えている。「蒼いフォトグラフ」という、松田聖子の15枚目のシングルで、両A面シングルという記憶がある。Wikipediaで調べたら果たして「両A面」は当たっていたが、正確には再プレス以降に変更したようだ。
話はそれ続けるが、両A面とは完全に死語である。当時(1983年)はまだレコード全盛の時代。シングルレコードはA面とB面があり、A面が表(おもて)面でタイトル曲だ。B面はその反対でありほとんど話題にされない。
松田聖子の「青い珊瑚礁」は私の世代であれば知らない人はいないが、そのB面の曲が「TURE LOVE」であることは、マニア以外知らないであろう。
さて、「蒼いフォトグラフ」はもともと「瞳はダイヤモンド」のB面だったが、「青が散る」のドラマの主題歌ということがあって、両A面に昇格したのだと思う。実際に名曲である。
「泥の河」であるが、昭和30年の大阪が舞台である。船上を住処として、売春して生活する人々がいたことを、私は知らなかった。現在ネットで「船上、売春、昭和30年」などで検索しても、「泥の河」の設定は出てこない。「水上生活者」で検索すると、「1960年代後半に激減した」とあるので、その昔、水上生活者は存在していたということだ。東京では、佃、月島、勝どき周辺に多く見られたそうである。
冒頭から惹きこまれる。やなぎ食堂に常連の鉄くず売りの男が来た。戦争中の話をして「いっぺん死んだ体やさかい」とつぶやく。その直後に起きる事件は、人生のはかなさを見事に語っている。
物語は、主人公の信雄とその友人である喜一を中心にゆったりと流れるが、心のどこかに寂しさを抱える喜一が、ときに虚勢を張り、ときに必死で信雄の気を引こうとする様子が描かれる。誰もが少年時代のことを思い出すのではないだろうか。
私は小学校時代友達が大変少なかった。大抵は家に帰って好きなこと(日本地図を見たり、星座の本を読んだり)をやっていた。それでも、1人仲のいい友達がいて、彼に家にはしょっちゅう出入りしていた。彼に嫌われたら、もう他に誰もいないという感覚があった。
ドラマは、信雄の家の引っ越しが決まり、ほぼ同時に喜一の舟が移動する日を最後に終わるが、川蟹をランプの油で燃やすシーンが妙に印象的で、視覚に残るのは、作者の筆力なのだと思う。
「螢川」は、「泥の河」以上に絵画のように視覚に訴える作品だ。
親父の重竜は、五十二のとき千代との間に子供を産み、先妻と別れて千代と暮らすことにした。竜夫が十四のときの物語だ。重竜は戦後北陸で有数の商人にのしあがったが、最早命運は尽きていた。
大森という男から資金融通をしてもらおうと妻の千代を遣わそうとするが、大森は息子の竜夫に来るようにいう。そのやり取りはなかなか粋なものである。
重竜が亡くなった年の4月に大雪が降った。小学校四年生のときに銀蔵と約束していた螢狩りに行くことが決まった。
銀蔵と千代と竜夫と英子の4名で、螢狩りに行く。最後にようやく螢に出会った風景は、絵巻物さながらで、非常に幻想的だ。

作品を読みながら思ったこと-引用あり
「泥の河」
「泥の河」で父親の晋平が子供の信雄に語る場面がある。
「お父ちゃんなあ、もっと他のことがしてみたくなった…。もっと張りのあることをなあ」
「……」
「わしかて、いっぺん死んだ体や。あの馬車のおっさんが死んだ日、ほんまにあの日は一日中、体がきゅうっと絞りあげられるような気持ちやったで。いっぺん死んだ体やさかい―――あいつ、そない言うて死によった。あいつも、わしも、いままでに何遍も何遍も死んできたような気がしたんや。けったいな話やけど、ほんまにそんな気がしたんや。人の死に目に逢うたんは、あれが初めてやないでェ、そらもう何人もの人間が、わしの傍でばたばた倒れていきよった。……そやけど、あんな気持ちになったのはあの日が初めてや」
信雄は膳に凭れこんでポカンと父の顔を見つめていた。
「ほんまに、あっちゅうまに死んでまうんやでェ、いまのいままで物言うとった奴がなあ。部隊で生き残ったんは二人だけや。日本の土踏んだ時、俺はしあわせや、何にものうても。生きてるというだけでしあわせや、真底そない思たもんや。何年振りかでお母ちゃんの顔見て、俺の女房こないに別嬪やったかとほっぺたつねったわ」
『泥の河』 宮本輝 角川文庫 No.426
これに続き、戦争の思い出を語る。自分は何で死ななかったのだろうと。そして、もう1人の生き残りは、戦場ではかすり傷一つしなかったのに、復員が3ヶ月で崖から落ちて死んでしまったというエピソードを語る。
「何回も何回も九死に一生を得るような目に逢うて、やっとの思いで祖国へ帰って来て、ほんでからそんな すか みたいな死に方してしまいよった……」と述懐する。
晋平は息子の信雄に酒を飲みながら、さらに続けて本音を語り続ける。
「なあ、のぶちゃん。一所懸命生きて来て、人間死ぬいうたら、ほんまに すか みたいな死に方するもんや。……こないだ死んだ馬車のおっさん、あいつも、ビルマの数少ない生き残りや」
「新潟でなァ、……新潟で一緒に商売しょういうて、お父ちゃんを誘うてくれる人がおるんや。お父ちゃんなあ、なんかこう力一杯のことをやっときたいんや」
『泥の河』 宮本輝 角川文庫 No.459, 463
戦後生まれの最も裕福な時代に育った自分は、戦争というものを全く経験しておらず、(父親はぎりぎり戦前生まれだが)親から語られることもなかった。生死をさまよう体験はないが、それでも人の一生は昔も今も変わりはない。限りのある命、誰もその最期は分からないのだから、「力一杯のことをやっときたい」という親父の本音は、この年になるとずしんと響く。
晋平は妻の喘息がきっかけで、新潟に引っ越そうと決めた。それでも妻はなかなか了承しない。定食屋の親父が自動車の修理や板金をする会社と作ろうとしているのだから、不安に思うのは当然だ。
現実問題、晋平が新潟で上手くいくのかと言えば、この小説の記述を追いかける限り、非常に心もとない。それを妻は見抜いている気がする。それを、いかにも妻のためだと言うから、余計にややこしくなる。
大人の会話というのは、ときに理屈で説明しようとして、本心が隠れるから上手く行かない。
こんなとき、晋平は信雄に対して話したように本音が言えないのは、なぜだろうか。それでは相手をうまく説得できないと思っているからだろうが、実際は逆であろう。
信雄が、心の中と裏腹の言動を示す時が2つある。
1つは先の親父との会話で、親父が行きたい新潟は、「降り積もる雪も、信雄にとっては未知な、それでいて妙に寂しげな響きを持つもの」と思っているにも関らず、「……僕、新潟へ行きたいわ。雪のいっぱい降るところで暮らしたいわ」という場面。
もう1つは喜一が縁日でロケットのおもちゃを盗んだとき、「いらん」「泥棒、泥棒、泥棒」と叫ぶ場面だ。
子供心は表面を見ていても分からないということをいいたいのではない。このような子供の言動を通じて、教育の大切さをすごく感じるのだ。親への愛情、道徳心。そういったものが小さいころに育まれている。
最後に、喜一が、自分の宝だといって蟹の巣を信雄に見せるシーンの一部を引用したい。
「帰らんとき、おもしろいこと教えたるさかい」
喜一は信雄の肩を押さえて立ちあがった。
「……おもしろいことて、なに?」大きな 茶碗 にランプ用の油を注ぐと、喜一はその中に蟹を浸した。
「こいつら、腹一杯油を呑みよるで」「どないするのん?」
「苦しがって、油の泡を吹きよるんや」
喜一は声を忍ばせてそう言うと、舟べりに蟹を並べ、火をつけた。幾つかの青い火の塊が舟べりに散った。
動かずに燃え尽きていく蟹もあれば、火柱をあげて這い廻る蟹もいた。悪臭を孕んだ青い小さな焔が、何やら奇怪な音をたてて蟹の体から放たれていた。燃え尽きるとき、細かい火花が蟹の中から弾け飛んだ。それは地面に落ちた線香花火の雫に似ていた。
「きれいやろ」
「……うん」
信雄の膝が震えた。恐ろしさが体の中からせりあがっていた。
『泥の河』 宮本輝 角川文庫 No.897, 909
この前段で、喜一は竹箒を揺すって、川蟹を舟の中に入れる。ここでは音だけが描写される。それから、このような油を吸った蟹が燃えるシーンが映像的に描写される。
この後、信雄は喜一の異常に気づき、「もうやめとこ!」と叫ぶシーンが描かれる。
加えてそこには、親父に先立たれ不遇な幼少時代を過ごす喜一の屈折した心、純粋な気持ちから自分と友達でい続けてくれる信雄を失いたくない切迫した気持ちが表れていて、読む者を切ない気持ちにさせる。
「螢川」
この小説の山場はとにかく最後の最後にある。竜夫とその母千代、それに英子と大工のじいちゃん銀蔵の4人で螢の大群を見に行くシーンだ。
冒頭ほどなくして銀蔵の次のせりふがある。
目が醒めた瞬間から、竜夫は胸の中で、四月の大雪や、四月の大雪やと叫びつづけていた。四月に大雪が降ったら、その年こそ螢狩りに行こう。銀蔵とのあいだでそんな約束を交わしたのは、竜夫が小学校の四年生になった年であった。
「降るのよ螢が。見たことなかろう? 螢の群れよ。群れっちゅうより塊っちゅうほうがええがや。いたち川のずっと上の、広い広い田圃ばっかりのところから、まだずっと向こうの誰も人のおらんところで螢が生まれよるがや。いたち川もそのへんに行くと、深いきれいな川なんじゃ。とにかく、ものすごい数の螢よ。大雪みたいに、右に左に螢が降るがや」
『螢川』 宮本輝 角川文庫 No.1280
銀蔵のこの言葉に、螢の大群を見たいと思わせるすごい力が備わっている。
物語は、竜夫の親父の重竜、母親で後妻の千代、先妻の春枝、重竜の友人の大森、竜夫の友人の関根、クラスメートの英子が織りなしていく。
重竜はいよいよ自分がもうダメだと悟ったのか、妻の千代を昔の仕事仲間である大森に遣わそうとする。ところが、大森はわざわざ息子の竜夫に来るように仕向けた。
重竜の息子と交わした約束は以下の通りだ。
「返すのは、おとなになってからでええがですか?」
と懸命に涙をこらえて訊いた。「おうよ、ええともええとも。おとなになって金を 儲けるようになってからでええがや。返せる金がでけて、そのとき、わしがもう死んでおらんかったら、返す必要はないがや。ただあんたが、きょう、わしから金を借りたということは、間違いのないことにしとくがや」
大森は二通の借用書を作った。無利子で無期限、貸方が死亡したときは貸借関係は消滅するという但し書きを大森は大きい字で書き添えて自分の判を押した。竜夫は言われるままに氏名を書き、印肉に親指を押し当てて、拇印をついた。
『螢川』 宮本輝 角川文庫 No.1427
これに続き、重竜を評して語る以下の言葉が重い。
「水島重竜はどこまで偉うなるか怖いぐらいやったがに、ある時期から、急に運を失くしてしもうたちゃ。頭のええ、腹の大きい、人間としてはまことにええ人ながに、ぽつんと運が切れたがや。運というもんを考えると、ぞっとするちゃ。あんたにはまだようわかるまいが、この運というもんこそが、人間を馬鹿にも賢こうにもするがやちゃ」
『螢川』 宮本輝 角川文庫 No.1436
人生を振り返って考えると、このようなことが言えるのかもしれない。
悪い結果に対して、原因を「運を失くした」「運が切れた」からと説明している。ただ、これは裏を返せば、途中までは説明不能なほどに運に恵まれていたと言っているのと同じである。実際、それだけの運を付与された水島重竜が、より際立って見える述懐でもあって面白い。
重竜のお葬式に先妻の春枝が来る。千代は竜夫に富山駅まで遅らせるシーンがある。その後、富山に着くと春枝が高岡まで一緒に行こうと言う。その間、ほとんど会話を交わさないあたりが非常に昭和の日本人像を映し出している。
高岡駅で駅に降りた竜夫に、窓から腕をつかんで、息せき切ったように話す春枝の次の言葉も非常に印象的だ。
「おばちゃんのできることは何でもしてあげるちゃ。商売が何ね、お金が何ね。そんなもんが何ね。みんなあんたにあげてもええちゃ……」
春枝は泣きながら紙きれに自分の住所を書きつけて竜夫に渡した。乗客もホームに立つ人も怪訝そうに竜夫と春枝を見ていた。
『螢川』 宮本輝 角川文庫 No.1834
春枝は、重竜に捨てられ恨みを持っているが、一方で大金をもらい、言われた通り事業をして成功している。竜夫は自分の子ではないが、子供に罪はない。竜夫の境遇が不憫でならない。あふれ出る感情がとまらない光景は、非常に感動的である。
実は、この文章を書くに当たり、文章を2度読み返した。1度目は文庫本で、2度目はKindle版をわざわざ購入してiPadのアプリで読んだ。最初に読んだときには読み飛ばしていたことが、いろいろ出てきて発見があった。
螢の大群を見たという銀蔵も、最愛の息子を亡くして寂しい余生を過ごしている。竜夫に「息子が大きくなって、それからしあわせになってから死ぬがや」と言ったセリフがさりげなく書かれている。
千代は兄貴に大阪に来て商売を手伝ってくれないかと執拗に誘われている。行きたくないが、生きることを考えれば、その選択をしかたないと迷っている。そんな大人の事情も相まって、螢の大群への旅は、大人たちにとって、千載一遇、最初にして最後の賭けようなものであった。
当初、螢の大群への旅の結末の一部を引用していたが、カットすることにした。結末まで書くのは、やはり一線を越えていると思いなおしたためである。(2021/6/24)
一方で、こう記しておきたい。作者の映像的な視覚的シーンの表現は、実に幻想的で美しい。それは是非とも作品を読んで味わってほしい。そして、そのとき、銀蔵は何を思い、そして千代は何を思ったのか。
これら2つの作品は映画で見てみたい。「泥の河」はAmazon PrimeやHuluで見ることができそうだ。「螢川」は見当たらない。Netflixで見ることができないだろうか。