2021/6/30 川端康成と伊藤初代

ぎばーノート~ギバー(Giver)という生き方の記録

川端康成の作品を、今さらながら読んでいるので、非常に興味深く話を聞いた。毎水曜日は、男性合唱団の練習がある。今回は、川端康成と伊藤初代のラブレターにまつわる話であった。

伊藤初代という人をそもそも知らなかった。川端と婚約しその1か月後に突然婚約破棄を告げた女性である。Wikipediaにこんなに大量な情報が寄せられていることに驚いた。

川端は、給仕していた少女の初代を目当てにカフェ・エランに通った。その後岐阜に預けられた初代に会いに、岐阜まで行って、結婚を申し込み、はっきりと承諾をもらった。

にもかかわらず、その後「私には或る非常がある」と書かれた手紙をもらい、私のことは忘れてくださいという。後ではっきりしたことであるようだが、「非常」とは、養父であった寺の住職に犯されたのである。

川端作品に出てくる女性は全部ティーン・エイジャーである。伊豆の踊子はもちろん雪国の駒子ですら19歳だ。これは、この原体験に起因しているというのが団長の見立てである。

ここからもっと面白い話に踏み込むのだが、この推測はちょっと言えない。あまりに確証がもてないからだ。

ノーベル賞に関して、川端は三島由紀夫に、「君はまだ若いから俺に譲ってくれ」と言ったという話を、Matsumura Eikoという人がNHKで証言している、という。

早速調べたら、しっかりと記録されている。インターネットは本当にすごい。(クローズアップ現代 2019年2月4日(月) 「三島由紀夫×川端康成 ノーベル賞の光と影」。)村松英子さんは女優であった。

興味のある方は読み進めていただければと思うが、当時、川端と三島には、非常に複雑な感情があったと思う。
これを機に、また「金閣寺」を読み返してみたい。

三島は川端がノーベル賞を受賞した2年後に、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決する。ノーベル賞を取っていればこの事件は起こらなかったかもしれない。
そして、その2年後川端はガス自殺を図る。

そして、Usui Yoshimiという人が、川端の自殺の真相を書いた、という。ただ、この本は川端家から差し止めを食らって10日しか発行されていない。私(団長)はこの本を持っているので、読みたい人があれば貸します、という。

早速調べると、臼井吉見という名で見つかった。川端について書かれた本は、『事故のてんまつ』であることも分かる。Wikipediaによれば、どうもこの本は、かなり事実とは違ったものであったようだ。

ここに出てくるお手伝いの「鹿沢縫子」は実在する人物で、彼女が「辞めて長野に帰ります」と告げた翌日に自殺をしたのは事実。
団長曰く、松本深志高校を卒業した10代の「縫子」(この事実はネット情報では確かめられていない)は、老人川端にさして興味はなかった。また、人生の最後で、若き少女の裏切られた。そして死を選んだ、という。
確かにこの説は、自殺説の一つとしてWikipediaにも書かれている。

自分は川端康成という作家に興味があるだけに、この話を非常に興味深く聞いた。先に紹介した『掌の小説』~日向に出てくる「娘」も、伊藤初代がモデルだという。その知識を得た読み返すと、小説はまた新たな輝きを持つ。

Wikipediaなどを詳細に読み進める(もう2時間くらい調べている)中で、カフェ・エランが本郷区本郷元町であること、新居を本郷区根津西須賀町に決めていたなどを知る。これらの場所は、私の現在の住まいであり、引っ越し前の住まいである。執拗な関心を持ったのは、ちょうど100年前、ここで起きていた話だからであろうか。

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