本日、7月末の伝ちゃんのPremium朝カフェで知り合った方から、お誘いを受けて、今村寿豪二朗さんの講演会に行ってきた。
その方と知り合わない限り、出会う可能性はほとんどなかったと思う。不思議なご縁のつながりに感謝したい。
さて、いろんな興味深いお話を伺ったが、ここで1つ2つご紹介したい。
相撲
1つは相撲のことである。相撲は神事であるという。そして相撲は世の中の出来事を事前にお知らせする場所であるという。まず、力士の張り手の威力がどのぐらいあるかという話があり、最大で300kgぐらいあるらしい。これは、確か鉄アレーを積んたバイクが時速25キロで自分の顔に当たったのと同じ威力だとおっしゃっていた。
普通の人が大怪我するのは言うまでもないが、力士同士もこれを連日受けている訳だから、普通ではない。これは神聖な儀式だから、怪我しないで済んでいるのだという話である。
これは一つの例であるが、非常に有名なうなぎやさんに入ったところ6,000円もしたという。それでも、満席で予約しない限り、入ることができない。そのお店には、番付表が額に入れて飾ってあったという。(今村さんはそこには触れていなかったが、)もしかしたら、うなぎの味や老舗の看板の影響もあるのかもしれない。今村さんはズバリ、店の店主が「相撲の何たるか」を知っているからであるとおっしゃっていた。
今村さんは相撲が神事であると知っていらっしゃるので、その力の大きさを我々に話して聞かせてくれたのである。
家の玄関に番付表と手形を額に入れて飾るといいですよというアドバイスもしてくれた。手形は、自分を守る、嫌なことをはねつけてくれるそうだ。
この話に私は非常に魅せられた。時代を先取りして教えてくれるのであれば、今の相撲が我々に何を暗示しているのかを、自分の目でみて読み解くのはすごく興味深い話ではないか。
ちょっと残念なのは、コロナ直前の場所が、その後を示していた例をお話しされていたが、ちょっとメモを取っていて頭に残っていない。
今調べてみると、大相撲令和2年1月場所は、白鵬、鶴竜の両横綱が休場し、大関豪栄道が角番負け越しで場所後に引退、関脇高安負け越し、両小負け越しと、ちょっと異常な場所であった。
また、私は、つい最近「お墓参り」で相撲のことを思い出したばかりなのである。小学校低学年のとき、あれだけ好きだった相撲が、ここに来て祖母を通じて思い出されるのも、何か意味があるような気がした。
講演会場で最新の番付表を売っていたので、買って、早速額縁に入れて玄関に飾っている。
さて、相撲は神事なので、大相撲を見に行くと、いい運気を必ずもらえるという話をされていた。前で見れば見るほど運気が強いという。
その際、このようにおっしゃった。「意味を知っているのと知らないのでは全然違う。意味を知っているから効力を得ることができるのです。」と。例として爪切りを出されていた。使い道が分からなければ全く用を為さない代物だということだ。これは非常に分かりやすい説明だった。そして私には説得力があった。
以前、懇意にしている占星術師からも、「知ってしまったのだから、それが示すことに意味があるのよ。」と言われたことがある。例えばこうだ。占星術を知らなかった過去は、知らないのだから当然考慮のしようがない。知ってしまうと、仮に「それは今年はやらない方がいい」という占星術的な情報が入ると、それが気になる。「知らなかったら、そんなこと気にしなかったのに」という考えは、意味がないという。「知ってしまったあなたにとって、このことが正に意味があるの。」ということだ。
似ている話だと思った。意味を知っている・意識しているということと、無意識で接していることでは、同じ事象でも、自分に与える影響力が全然違ってくるというのは、その通りな気がする。
私は相撲の神聖さを知ってしまった、だからそれを理解して両国国技館に足を運べば、いい運気がもらえるということだ。昔好きだった自分は、小学生だったから、見に行くなどという発想もなければお金もない。昔は、お茶屋さんおいう人たちが仕切っていて、チケットも手に入りにくかったし、もっと高かったのではないだろうか。今はネットで調べれば、自由席2,500円ということが一発で分かる。現在場所中である。行かない手はない。
他にも大変興味深い話があったが、まずは相撲との再会を祝したいと思っている。