2021/9/7 お墓参り

ぎばーノート~ギバー(Giver)という生き方の記録

本日は、母方の祖母の命日であった。

今年に入って、母親から私の祖父母4名の命日を聞き、Googleカレンダーにリピート入力(今後毎年同月同日に表)していた。

朝起きて(命日であることに)気付き、午前中の所用を済ませてから、一人で行くことにした。その旨を妻に言うと、妻も行くという。お墓の最寄り駅でランチを食べることで、時間をつぶしそこで待ち合わせをした。

5月に祖父の命日お墓参りをして以来である。お寺は緊急事態宣言下であり、前回同様参拝に来ている人は一人もいなかった。チベット密教の教えで、お墓参りのお作法をいくつか学んだので、それを実践してみた。4方に回ってお水をかけお礼をすることや、隣接するお墓にもお参りすることなど。

妻が、お墓の敷地内(といっても非常に小さい)に生えた雑草を綺麗に刈ってくれて、枯葉を掃除してくれた。

祖母は気丈で最後まで頭脳明晰であった。確か90歳を超えて家の階段から転げ落ち大腿骨を骨折した。あのときも入院して復活した(と記憶している)。なので、死ぬことが信じられなかった。

4人の祖父母の中では、一番長く接し、一番多くを話した。いろんな思い出があるが、一つはっきり覚えていることがある。あのとき私は、小学校2年生。千葉から東京に引っ越して来たときである。当時神田神保町にあった祖父母の家によく行った。

祖父母は相撲が大好きで、相撲の場所が開催されているときは、いつも相撲を見ていた。私はその影響を受け、相撲が好きになった。その時期最強の横綱は北の湖である。強かったが、人一番人気がなかった。

今思えば、北の湖はそんな最強であったのかというと、ちょっと疑問が残る。双葉山までさかのぼるともう全く分からないが、大鵬の全盛時ほどの安定感はなかったと思う。とにかく取りこぼした多かった。

ところが、強すぎて面白くない、にくたらしい男、ふてぶてしい奴と、酷評されていた。当時小学校2年生が新聞を丹念に読んでいた訳ないので、私の当時の思い込みは、すべて祖父母、両親、おばからのインプットであったと思う。

昭和50年の春場所か、秋場所か定かでないが、おそらく秋場所(九月場所)であろう。北の湖と貴ノ花(貴乃花光司の親父)が優勝決定戦で相まみえることになった。祖父母の家は、私を除き全員が貴ノ花を応援していた。子供心ながら、貴ノ花を応援する大人たちが全く理解できず、一人正座して北の湖と一心同体となって、心の底から応援していた。

結果は、貴ノ花の2度目の優勝である(1度目も優勝決定戦で北の湖を破っての初優勝だった)。このとき、祖父、祖母、叔母、母親たちが、大きく「よしっ」と叫んだ。子供としては大変傷ついた。

何と、YouTubeで当時の対戦を見ることができる!恐るべき時代だ。(北の湖vs貴ノ花 (昭和50年九月場所・優勝決定戦))(ちなみに貴ノ花初優勝のYouTubeもある。)

話がそれまくったが、祖母が貴ノ花の大ファ―ンで・アンチ北の湖だったことを思い出した。「だから何?」であって、これ以上話の落ちもない。でも、いつも優しくにこやかで、そして明るくいろんなことをしゃべってくれた祖母が、あの相撲のときだけは、私と反対側にいたことを思い出したのである。

そんなことは後にも先にも1度もなかった。なぜならば、貴ノ花はその後は衰えて優勝に絡むことはなくなった。北の湖は大半の日本人に好かれていなかったので、黄金の左下手の輪島の方が人気があったと思うが、祖母は別に輪島ファンという訳でもなかったので、私の反対側にいるという感覚はなかった。

今ふと突然私の前に現れたら、こんな思い出話をしてみたい。私の前に現れなくても、この文章を書いている自分を遠くで見ながら笑っているのかもしれない。

さて、お参りでは、いつも通り、家族が無事で健康であることの報告とそのことに対する感謝を伝えた。ただ、神社でもお墓参りでも、ここ10数年一度もお願いごとをしたことがなかったが、今回は1つだけお願いごとをした。これがもし叶ったら、私の人生は180度変わるような大事である。

今後楽しみである。

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