前回いつだったのかを正確に思い出せないので、2年は仮置きの数字であるが、とにかく久しぶりに麻雀を打った。中国から帰国してほぼ8年が経過するが、その後麻雀をしたのは、5回ぐらいだと思う。なので、2年ぶりは決して久しぶりとは言えないのだが、感覚としてはやはり久しぶりなのである。
相手は皆、前会社の同僚。1人はまだ前職でバリバリ働いている。他の2人は転職して、上場準備会社の要職についている。
本来であれば、私からいろいろ聞きたいことがあって、それぞれに話しかけたいところだが、なんせ滅多にやらないので、打つことに集中しないと間違える。他の3人は、コロナ発生前は、しょっちゅう集まって卓を囲んでいた猛者ばかりである。
現に私は2回もチョンボをした。1回は誤ロンである。上がり牌と違うものに対して、「ロン」(上がりを意味する)と発してしまったのである。本当に考えられないミスである。
もう一つは説明が少々厄介である。今回のローカルルールで、十三不塔(シーサンプーター)(※)という役があることを前日に聞き、調べていた。配牌時にあまりにもばらばらで、もしやと思った。そして自模って、初めて雀頭ができたので、慎重に考えて牌を倒した。ところが何と、嵌張待ちの搭子があったのである。
※ 十三不塔 :面子(メンツ)・塔子(ターツ)が一切なく、雀頭が1つだけある状態で成立する。役満である。
本来であれば、罰符と言われる罰金を払う必要があると思われるが、誤ロンは牌を倒していないので上がり放棄で許してもらい、シーサンプーターは完全に情けで許してもらった。
さて、中国から帰国後、変なことを気にするようになった。それは、牌の言い方、すなわち牌の発音である。大学時代は廃人のように徹夜麻雀を繰り返していた自分にとって、牌の呼び方などは体に染みついている。
ところが、その発音が中国語と合っていたり違っていたりして、頭の中が混乱するのだ。これは、プレー中非常にノイズである。
ただ、かなり合っているとも言える。数字の呼び方は声調と言われる音の上げ下げを除けばすべて中国読みである。また、「萬」は日本語では「マン」だが、中国語では「ワン」である。麻雀打ちは「ワン」としか発音しない。
一方で「筒」は中国語で「トン」なのに、日本の麻雀ではなぜか「ピン」という。(さて、中国では何と発音していたかな。数回だけ中国人と一緒に卓を囲んだことがあったが、何と発音していたか忘れてしまった。)
蛇足だが、「麻将」と書いてマージャンと読む。「麻雀」はマーチュエである。
ちなみに、この記事を書いている際、なかなか素晴らしい麻雀ゲームについて解説をしているウェブサイトを発見した。
その名は「麻雀豆腐」。フロントページはちょっと分かりにくいが、最上位にある「メニューバー」をクリックしていくと、ルール、役、点数計算、用語などが漏れなく書かれている。
話を変えて、皆の近況を聞いて感じたことを記載したい。
前職に残っている人は、相変わらず忙しく仕事をしている。そして、パートナーは無茶苦茶忙しく働いているという。どの職位も安住の地はないと言う。
転職した2人のうち1人は働き方を模索している印象を受けた。今の会社の待遇には満足しているが、やはり忙しいようだ。経営者会議や取締役会などを取り仕切っているのであろう。それらが毎週のように切れ目なく行われるので、精神的なプレッシャーが相当にあるのだと思う。
もう1人は転職先でやりたいことができており、「今の生活は充実しています」と言っていたが、それでも日曜日になると一人で家にいたくないと言っていた。彼なりに素晴らしいリフレッシュ方法を見つけているので、(過去の自分に照らして)全く問題ないと感じたが、少なくとも月曜日を迎える恐怖のようなものが存在しているのだと思う。
前職に残っている人とは「日本人は働きすぎ」という点が意見が完全に一致した。「皆やばいよ、本当に」というレベルで働いている。もちろんその陰でそうでもない人がいるのも事実であろう。特にコロナ下で、猛烈にリモート化にシフトしたので、職員を管理しきれない問題が存在する。
英語を勉強していて、15人ぐらいの欧米人と話す機会があるが、日本在住の欧米人は全員、日本人のことを「Hard Worker」という。頭にVeryが2回ぐらいつく。考えられない、自分には絶対にできないという。一方で決まって「Respect」するともいう。直接話を聞いているので、それが単なるお世辞ではないことが分かる。日本に住んでいるのは、「そういう日本が好きだから」と言ってくれる人もいる。
それにしても、同じ人間でこれだけの(仕事に対する向き合い方に)差がでるのは何が原因なのだろうか。
民族の違いだとすると、それは先人たちから綿々と受け継いできた美徳であり伝統であり価値観であるということだろうか。
それとも、我々が小さい頃から、親・学校・塾などで受けてきた教育、社会人になって先輩・会社から教え込まれてきた教育、これが大きな影響を与えているのだろうか。
もうちょっとこの「Hard Worker」について深堀りしてみたい。「Hard Worker」であること自体、何ら問題ない。私はそれを誇りに思ってきたし、今でもそう思っている。問題なのは、今の仕事が嫌だという感覚であり、つまらないと思う気持ちであり、忙しくて辛いという事実である。
今日卓を囲んだメンバーも、ネガティブな側面を抱えつつ、いろいろ模索しながら、仕事に向き合ってることを感じた。
私の周りには、多かれ少なかれ、それらを抱えながら毎日を過ごしている人が多かった。私自身、その典型的な一人であった。
ところが最近、会う人に少し変化が出てきた。
年配の方も多いので、嫌い、つまらない、辛い時代を卒業されたということかもしれない。(ビジネスの付き合いではないので)単にそういう顔を見せないだけかもしれない。過去の稼ぎからお金が潤沢にあって、もう第二の人生をと割り切っているのかもしれない。
でも、何人かの若い人たちは違っている。確実にその輪から外れて自分の人生を過ごしているような気がする。「気がする」と書いているのは、自分がまだその域に達していないので、彼らと同じ景色が見えていないからである。
そういった人たちから、多くのことを学んでいきたい。