男性合唱団は、11月3日は祝日で休みだったので、前回に続けて先生の講義があった。
楽譜
西洋の音楽が発展した理由は何か。それは楽譜を発明したことだという。1000年頃にイタリアに生存したグイードと言う人が、楽譜を発明した。先生の言葉を借りると、「楽譜によって音をフリーズさせることが可能になった」のである。
引き合いに出されるのが日本の謡曲(能の声楽)である。どうやら200曲ぐらいしかないらしい。これは口伝で行われたので、ここが限界だったという。(本当はもっとたくさんあったはずだが、残らなかった。)
一方、オペラだけで7万曲あるという。
グイードが楽譜を発明したので、紀元後800年ぐらいに存在したグレゴリー聖歌が書き写されたという。
ペスト、ルネサンス
1347年にペストが大流行し、中世ヨーロッパの人口の1/3が死亡したという。神にどれほど祈っても解決されないこの問題は、神よりも現実の人間を尊ぶ風潮を生んだ。これがルネサンスを興す。ルネサンスがあって、初めてクラシック音楽が始まりを迎えたという。
いろいろな話
話がいろいろと飛ぶので、面白い話をいくつかまとめてみる。
- モーツァルトまでは音楽家はサラリーマンでかつらをつけていた。なぜかと言うと風呂がなかったので臭かったという。モーツァルトは死ぬまで一度も体を洗ったことがなかったと言われていると、よく先生は言う。
- 一方、ベートーヴェンはかつらをかぶらかなった。ベートーヴェンは音楽家を芸術家と言った初めての人である。そしてかつらをかぶらなかった。この2つの関係性はよく分からないが、ベートーヴェンは生前100回近く引越しして(追い出されて)いるらしい。それは、家で行水していたため、水が階下に漏れたからだという。
- ちなみに、ベルサイユ宮殿には最初トイレがなかった。バスルームが初めてできたのは、マリー・アントワネットのときだったという。これを裏付ける記事をネットで見つけたのでリンクを貼っておく。(マリー・アントワネットも悩まされた、ベルサイユ宮殿の残念な真実)
- 声楽曲中心だったのが、ルネサンスで器楽音楽の関心が高まる。当時は教会で演奏してはいけなかった。なぜならば、器楽曲はジプシーの音楽を連想させ、ジプシーには踊りがつきものだった。教会はおどることを極端に嫌った。踊りは性的なものにすぐつながるからである。ちなみに、ロシア正教は、(今でも)パイプオルガンも認めていないと言う。(教会によって封印されていたものが、ルネサンスで解放されたということだと理解した。神に祈っても解決されないのであるから。)
- 反田恭平がショパンコンクールで優勝できなかったのはなぜか。本番(ファイナルのこと)であんなに歌ってしまったら、こびてしまったら、審査員は絶対にいい顔をしない。すでに売れているピアニストだから、おばさん受けする風に弾いてしまったんだな。予選まではずっとトップだった。(ただし、これは先生の感想であって字事実は分からない。現に別の情報では、優勝したブルース・リューが予選と通じてずっと1番だったというニュースもある。)
- ヨーロッパ人はおいしいものが嫌い、売れるものが嫌い。映画音楽を書いたらもう二度と純音楽には戻れない。
- 教養のある人と思われたいなら、ショパンとかチャイコフスキーとか言ってはだめ。ベートーヴェンやモーツァルトならまあいいだろう。でも一番いいのはバロック。こう言えば皆一目置くだろう。バッハである。
スポーツもサッカーとか言ったらダメ。イギリスに行ったら「ボート」というべき。 - バッハの流れで、メンゲルベルク指揮のマタイ受難曲が登場する。本当に素晴らしい曲だから必ず死ぬまでに一度聴いてほしいと。ぶっ通しで聴くと4時間。
私はヘルムート・リリングのCDを持っているが、買っただけで聴いていない。ちなみにGoogleでメンゲルベルクと打つと、サジェストキーワードの先頭に「マタイ」と出てくる。それだけ名盤なのであろう。観衆のすすり泣きの声がはっきり録音されているという。 - メンゲルベルグは今再評価されているが、ナチスの手伝いをしたために戦後相手にされなかったという。(Wikipedia「ウィレム・メンゲルベルク」参照)同じく、イタリア作曲家であるマスカーニも、ムッソリーニに近かったので不遇の死を遂げたという。ヨーロッパでは過ちは絶対に許さない風土がある。一方、「過去にあったものを水に流す」というのが日本。ここが決定的に違っている。山田耕作は戦後お咎め一切なし。軍歌を100曲以上作曲したという。
なお、先生はここを「日本人のすごいところでもある」と肯定的に捉えていた。 - クラシック音楽とは古典音楽ではない。これは誤訳である。どの辞書を引いても、「第一級の」という意味が最初である。次に模範的、標準的、古典的なという意味は3番目である。
カント、ヘーゲル
カントは、芸術の中で詩が最高、形のない音楽は最も価値が低いと記した。これがベートーヴェンに影響を与えたと言う。絵画も文学も残る。聴いて終り、何も残らない音楽という芸術は最低だという理屈である。
ベートーヴェンは音楽にメッセージ性を求めた。これ以降、音楽家は、何も語らない音楽は意味がないと思うようになる。
そして、ヘーゲル。先生は、クラシック音楽がわずか200年程度の歴史で幕を閉じたのは、ヘーゲルのせいだと喝破する。彼は、人間の活動は時代の精神の現れ、芸術は時代の求めに応じ、進歩なきは芸術ではないと言ったのだ。要するに、他人と違うことをやれというのが、ヘーゲルの主張であった。
これで、音楽家は大いに悩むことになる。他人と違うことをやらなければいけない。1911年マーラーが死ぬと、ロマン派は終焉する。近現代音楽の始まりである。シェーンベルクやストラヴィンスキーが登場し、美しいメロディーやハーモニーは破壊されていく。
最後に聞かされたのは、ジョン・ケージの「4分33秒」であった。「『偶然性の音楽』によって作曲家が音楽を構成するのをやめた。」と先生は年表に書かれている。
実際に数十秒聞いて見たが、単に自然に聞こえるが収録されているだけである。舞台に上がっている演奏家は最初から最後まで全く演奏しないらしい。全く馬鹿げているが、ここに至りクラシック音楽は廃れたのである。
![](https://gkgiver.com/wp-content/uploads/2021/11/IMG_3405-copy-1280x720.jpg)
再びいろいろな話
- 大学の先生をやって給料をもらっている音楽家はクズだと思っている。自分も大学で教えていたが、池辺晋一郎と一緒にあほらしく思って、2年で辞めた。(池辺は1年で辞め、自分はじゃんけんに負けてもう1年やらされる破目にあった。)
テレビに出ている芸術家・学者は4流だ。(共通しているのは、別にお金をもらっていること。それで、学者・芸術家と名乗っている人は本物ではないというだと理解した。) - 天才は、本当に異常にならないとなれない。正常でいながら異常になるのは難しい。そこに、自分(先生)の限界があった。自分は天才にはなれなかった。ジョン・ケージは本当にきのこ(麻薬という意味で使っていると理解)が好きだった。
ちなみに、Wikipediaの「ジョン・ケージ」によると、本当のキノコ研究家であったらしく、麻薬との関係性は否定されている。