『密教の呪術』 池口恵観著 KKロングセラーズ 2013年12月

ぎばーブック~ギバー(Giver)からの「本」の紹介

精神世界・スピリチュアル★★★

紹介文

著者は高野山真言宗伝燈大阿闍梨(2021年1月に宿老に就任)。修験行者の家系に生まれついた氏は、本書で真言密教の「加持祈祷」に加え「祈り」としての呪術について大いに語っている。目に見えない世界の存在を解き明かし、百萬枚護摩供の体験にも触れる。生きる意味を問いただす人生指南の永久保存版。

きっかけ

佐藤伝さんのチベットコードというセミナーに参加したメンバーで、10月26日に江の島大師に行くことになった。その日は恵観住職の護摩行があったためである。私は、誘われるままに着いていっただけで、その日まで池口恵観という人は知らなかった。

行きの車で、ある人が池口恵観の中でもこの書を強く勧めてくれた。絶対に読むべきだと。それが買った理由のほぼすべてである。

はじめに

 ほんとうの祈りは絶体絶命の危機の中で生まれる。目の前の困難に挑んだが万策尽き果てた時、人は、はじめて心の底から祈りを捧げるものである

(中略)

 人生は、ただ、流れて来るものを迎えるだけではなく、自らが創造するから意義があり、また、求めることで得られることが、人生の醍醐味ではないだろうか。
 私は人生を決定するのは、条件ではなく念であると考えているまた、念は人間の行動の源泉であると同時に物質に作用を及ぼしたり、また、自身を偉大にしたり卑小にしたりもする。
 人間は同じ能力を持っていても、まったく違った人生を歩むものだが、一方は大成功を収め、一方では鳴かず飛ばずだったりするのはなぜか?それは念ずる力による結果の顕われだからである

『密教の呪術』 池口恵観 KKベストセラーズ P3

いきなり引き込まれる。でも、のっけから大変厳しいことを言っている。絶体絶命にならないと、心の底から祈りを捧げない。そう言われてしまうと、今の自分は祈りという行為はしていても、どうしてもなんちゃっての域を出ていない。

また、私はある時から、「願掛け」というものを止めてしまった。それは、私の信頼している人から、「神様仏様にお願いする前に、無事に生きていることに感謝してください。」という言葉を聞いて、いたく感動したからである。ちょっと記憶がおぼろげだが、おそらく小林正観さんの言葉だったような気がする。

その流れで言えば、「人生は、ただ、流れて来るものを迎えるだけではなく」という件(くだり)は、正観さんの見方道とは逆である。「求めることで得られることが、人生の醍醐味」と言うのは、成功哲学的には能動的でエネルギッシュで、人の心をとらえる考え方である。

「念ずる力」は敢えて執念と言い換えてもよいかもしれない。執念が強い人の方が、現世的に成功している(本人が得たいものを得ている)。

これに続き恵観さんは、「(大記録打ち立てる、不調に終わるの違いは、)意志や気合といった念により、能力を拡大させた者とそうでない者の違い」だという。ならば、誰もが不調に終わりたくないはずだ。いや、私がそう思っただけか。自分の見方が、恵観的世界観に近いのかもしれない。

目に見えない世界

第1章はこのタイトルで書かれている。私が大事だと思った言葉が、ここにたくさん書かれている。

 私たちの視界に入る世界や見聞きしている世界というのは心が作りだしたものであり、この世に存在するすべては自身の心が映し出す幻影であり、また、我々の想念、意識は遠い過去に生きていた人々とも繋がっていると仏教では教えている。(P15)

(中略)

 「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」とはお釈迦様の言葉だが、「此」は「この世」で「彼」は「あの世」を意味する。「この世」があるから「あの世」があり、「この世」がなければ「あの世がない」。「この世」が生じれば、「あの世」が生まれ、「この世」が滅すれば「あの世」も滅する。
 つまり、目に見える世界と見えない世界は一体ということを示唆している
(P17)

『密教の呪術』 池口恵観 KKベストセラーズ

この前段に、祈りについて、「願いをかなえるために人智を越えた大いなる存在にお願いをする行為」と書かれている。そして、その根幹にあるのは、「人が抱く夢であり、希望といえる」と。

精神世界、あるいはスピリチュアル系と言われている本を読むと、ほとんどの本に同じことが書かれている。科学的に立証できない、あるいは証拠を示すことができないこともあり、私を含む多くの人が、日常生活においてこの法則のような教えを無視してして生きている。

ただ、もっともっと深く自分を洞察し、もっともっと長い時間をかけて目の前に起きていることを自分の心と結び付けていけば、その通りだと思えるような気がしてきた。

特に、此岸と彼岸の話は、非常に示唆深い。二元論の世界観で「この世」と「あの世」を語ることで、実体が伴っていると誰もが信じて疑わない「この世」が、「あの世」なしには存在しないことに気づくのだ。

もちろん、この文章に出会ってすぐそう覚ったわけではないが、頭の中で思考することに慣れきっている私にとっては、単に「感じろ」と言われるより、よっぽど説得力がある。

 釈迦は、苦行や絶食をしながらの厳しい修行では、覚りにはいたらないと苦行を捨てたとされる。
 ならば、六年間の苦行はまったく意味がなく、菩提樹の木陰で瞑想していれば覚りに到達できた……、と苦しい行をすること自体に疑問を抱く人がいるかもしれない。
 だが、苦行の中で心に湧いてくる迷いや煩悩を離れて覚りがあるのではなく、泥沼に水蓮の大輪が花開くように、苦しみがともなう苦行の中にこそ、覚りのきっかけがある
 苦行をすることで欲望が振り払われ、心身が純粋で清浄なものとなって、宇宙のリズムに近づく苦行があったからこそ、瞑想することによって真理の扉が開かれた、と私は考える。
 しかし、もしも、人が覚りにいたることができたとしても、ただ、覚っただけではその価値は無に等しい。

(中略)

 覚りにいたれば、その境地から一歩前に進むために、現実の中に身を投じて行動する。泥まみれになりながら人と交わり、人を救い、自分の得た覚りを人と分かち合う。覚りにいたるということは人のためになる、宇宙のためになるという意識と、その実現のための智慧をいただく、ということにほかならない

『密教の呪術』 池口恵観 KKベストセラーズ P26-27

釈迦が苦行を捨てたという話は大変有名だ。苦行については、完全断食や呼吸を止める行などが知られている。確かにやっているレベルが普通の人間が考えるレベルをはるかに超えているので、それをしなくても覚れるという話は朗報かもしれない。しかし、苦行なしに誰でも覚りが開けると言われても、それはそれで、地図がないまま目的地に着けますと言われているようなもので、正直覚れる気がしない。

それを恵観さんは「苦行に覚りのきっかけがある」「苦行することで欲望が振り払われる」と言っている。これは感覚的に受け入れやすい。

また、覚りの目的は覚り自体にあるのではなく、「行動すること」、「覚りを分かち合うこと」、「人のためになること」だと言い切っておられる点、強く共感できる。

 悩んだり、苦しんだり。絶望したり……、そういう時に、はじめて人は、気づき、どうなりたいか、何がいちばん大切か、幸せとは何か、といったことを真剣に自問自答するようになり、そこで、はじめて、いままでのやり方や生き方をあらためることが可能になる。
(中略)
 人は不幸に直面することで、自分の軸が定まり、人間として成長するのである

『密教の呪術』 池口恵観 KKベストセラーズ P53

このような恵観さんの世界観は、私には自然に受け入れられるものである。悩むこと、苦しいこと、絶望することをなくすのは難しい。そこに意味があるから経験するのであり、その意味は、人間としての成長を促すことと言い切ってくれれば、それだけで救われる気持ちになる。

加持祈祷とは何か

 人生は短く、人の運命には限りがある。人は多くを願うが、私たちが、生きていく上で、ほんとうに必要なものは、そう多くはない。そして、ほんとうに大切なものは、お金をかけなくても手に入れることができる。

 人を助けるという道を見い出した人は、ビジネス社会において大成功を治めた人に劣ることがない、価値ある希望に満ちた人生を見い出すことができる、と私は考えている。

 希望とは人間の意志であり、勇気である。それは環境や、外部の世界に置かれた状態にあるのではなく、自身の心の状態である。その深奥かつ、力強い感覚は、事業が順調に進んでいる時の安心感や、金融において勢いのある株に投資する意欲といったものとはまったく異なるものである。それは、価値があるという理由だけで、自身の利益とは無関係に奉仕しようという行動の源泉と呼べるものである

『密教の呪術』 池口恵観 KKベストセラーズ P93

生きていく上で本当に必要なものは何だろうか。こう突き付けられると、即答できない自分がいる。肉体が健康であることだろうか。人から頼られること。そして人の役に立っているという実感か。確かにそれらはお金をかけなくても手に入れることができる。いや、お金があっても手にすることはできないかもしれない。

恵観さんは、人を助けるという道を、価値ある希望に満ちたものだと言っている。それは自分の金銭的利益とは無関係な、奉仕の精神だという。「密教は、人を助けるという衆生救護を目的とした教えであり、加持は、そのための力であり、方法である。」と書かれていることから、密教の大僧正として、加持祈祷を繰り返す恵観さんは、定められた人生の目的をまい進しているのである。

神秘の力はいかにして生じるのか

 希望とは人生を劇的に変えるエネルギーであり、人生で必要な、すべてのことが、ただ一つの希望からもたらされることがある。
 日々の生活の中で希望は常にやってくる。だが、これを洞察して迎える準備ができていなければ、ほとんど見過ごしてしまうものである。
 希望には、あらゆる縁を引き寄せる力があり、因縁の因といえる。
 人は、普段、何を考え、何を行い、どのような会話をするかによって、その人の人間性ができあがる。その考えや会話が因縁となる。
 因縁には法則があり、人が言い、行動したことは、いつかかならず自分に跳ね返ってくるという習性がある。

『密教の呪術』 池口恵観 KKベストセラーズ P129-130

希望は常にやってくるが、ほとんど見過ごしてしまう。これは、非常にショッキングな言葉であると同時に、自分自身、ほとんど見過ごしていることを教えてくれる。なぜならば、希望が常にやってくるという感覚がないからである。希望があれば、引き寄せの法則が働く。その希望が叶うのであれば、もっと密かにその秘法を自覚しているはずである。

まずは今日から、洞察して迎え入れる準備をしよう。何をしてよいのか分からないから、負担の考え、行い、会話に注意することからはじめたい。

行者の家系に生まれて

以下に記載することは、個人的に親近感を覚えたからであり、多くの読者の感心をひくものかどうかは分からないことを最初に断っておく。

恵観さんは、自分の修するお加持は、家系に伝わるものを改良したものだという。なぜそれができたのかというエピソードに触れている。小学校三年生あたりから、「やせこけた白髪の短髪で、いつも涼しげそうな紺色の絣の着物を纏い、茶の絞りの帯を締めている」老人が夢に現れ続けたという。

加持を修した晩になると夢に老人が現れ、霊的な洞察についてアドバイスをしてくれたという。

恵観さんはその老人の正体を「おそらく天狗に違いない」という。そしてその老人を、自分のご先祖に違いないと感じるようになったと書かれている。

天狗が持っているストイックなイメージ、修験道の道者としての世俗を超越した厳しさが伝わって来た。それが、現在の恵観さんのいで立ちにも反映されているような気がしてならない。(10月26日に江の島大師で護摩行に参加して、恵観さんの鋭い眼光と強烈なオーラに接することができた。)

百萬枚護摩供

 人間がこの世に生まれた真の目的は、ひとつの仕事を成し遂げるためではないだろうか。もし、人が、その仕事を成し遂げることがなければ、人生は、何もしなかったのも同じではないか、と思うことがある。

『密教の呪術』 池口恵観 KKベストセラーズ P194

これは、恵観さんが、前人未到の百万枚護摩行ができるのではないかと思った、根底にある人生観だと思う。私は今現在、必ずしも同じ考えに立っているわけではないが、人生の意気込みとして、そのぐらいの覚悟がなければ、生きている意味がないのではないかと思う瞬間を何百回となく経験してきた。

だからこそ、節目節目で勤めていた会社を辞めてきたし、その後新たなチャレンジに挑んできたし、今またこうして訪れる読者のために、ひたすらこのブログを書いている。

私にとって、人生の真の目的たる、その仕事とは何か。一刻も早くそれをつかみ取りたい。

最後に

本書は、我々にこの他にもたくさんの気づきを与えてくれる。恵観さんは、常にはっきりとご自身のお考えを直截に述べている。そこが魅力であり、文章が凛とした説得力を持つのは、それが理由だと考える。

最後にこの例を持ち出すのは、適切ではないかもしれないが、恵観さんは、朝鮮総連の土地・建物を競売で落札した人であることが分かった。あの時、マスコミは恵観さんを「永田町の怪僧」として叩いた。

彼のこういった生き方それこそが、「泥まみれになりながら人と交わり、人を救い、自分の得た覚りを人と分かち合う」人生そのものではないか。

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