精神世界・スピリチュアル★★★
紹介文
著者は当時、東邦大学医学部の客員教授で麻酔の研究者。理学博士でもあり医学博士でもある。サイババという聖者を求めてインドに行き、そこで数々の神秘的な体験をする。物質化現象のなぞ、アーユルヴェーダという生命科学、それにインド占星術。科学者が直接目にしたことを綴る超真面目な体験記。
きっかけ
この本を読んだのは、ほぼリアルタイムである。手元にある本は1994年3月の八刷版だ。約10か月で八刷とはすごい。毎回何部刷ったのかは分からないが、想像を超える反響だったのは容易に想像がつく。
「三五館」という全く無名の出版社名を聞いて、不思議に思った記憶がある。ただ、改めて本を読み返すと、出版までに一定の時間を要したことが書かれており、大手出版社が取り上げるにはリスクのある内容だったのだと思う。
私がこの本を知ったのは、おそらく船井幸雄の『人間の研究』から派生してサイババに到達し、その関連で同書を知ったと推測する。もはや正確な記憶は失われてしまった。
出会い、旅立ち
著者は。カトリックのイエズス会が建てた中学校に通った。そこで、一つにブラザーと出会う。いつも食事のとき席が向かい合わせで、いろんな不思議なことを話してくれたという。ほどなくして著者は、彼に“弟子入り”したのである。週1回ハタ・ヨーガを教わるようになる。
「そうして、ひとたびそこへたどり着くと、そこにある私の真我と、よそにあるはずのあなたの真我とは、実は同じ一つのもの、“大我”だということが分かります。それは頭で分かるのではありません。本当に、ハートで分かるのです。そして、どこか遠くの、手の届かないところにあったはずの神さまというものも、この大我に他ならないのです」
『理性のゆらぎ』 青山圭秀 三五館 P16
中学生のとき、このような教えに接することが、著者のその後の一生を変えてしまったといってよい。ところが、著者がブラザーからヨーガを教わるのは、非常に短い期間だった。最後にブラザーは言った。「迷走することを忘れてはいけません。」そして、「真我を見つけ、大我に立脚したならば、それこそがインドの、いや人類の英知の全てだと知りなさい。」と。
中学時代にこんな出会いがあったら、それはとても運命的なものだったと思う。
物質の化学と意識の科学
当初、地球が丸いという証拠が少なかった時代には、ほとんどの人にとってこの代償は大きすぎるものだった。しかし、そう考えなければ説明のつかないことはその後増え続け、その膨大な量の情報は有機的に結びついて、今では地球が丸いという説は「事実」に昇格している。こうして当初は圧倒的だった「平たい」派は、何世紀かの内に、少なくとも文明国では絶滅しようとしている。
(中略)人々は、それぞれ自分の感覚に従って、より損失の少ないほうを選ぶ。そして、その真偽にかかわらず、圧倒的多数を占めるほうがその時代の「常識」と呼ばれるものを構成する。
それは時代によって移り変わるが、もし人類の英知を多少なりとも信じるならば、その趨勢は、この自然界をより本質的で、より統合的に、そしておそらくはより単純に説明するほうに、自然と流れるに違いない。心配しなくてもいいのである。
『理性のゆらぎ』 青山圭秀 三五館 P32-33
読者の皆さまからすると、いきなり、変な引用だと思われるかもしれない。地球が丸いということを疑う人は、この世の中にほとんどいない。それでも最近私は違うという説を、大人から聞いた。とてもすぐに受け入れられるものではない。それでも違う説を唱える人には、その人の理屈がある。なので、「真偽にかかわらず」という著者の説明は、科学者として非常に客観的であると思う。「常識」は「真実」とは限らないということだ。
また、そう言いながらも、人類の英知を信じている。これも科学者の態度として非常に健全だと思うし、読み手に安心感を醸成する。
この人は、その他の点では全く常識的で、普通の社会生活を営んでいる。そして、こうした人々の特徴とも言える、生命への慈悲や博愛、人生に関する英知が隠し切れない。
このような拡大された意識の前には、空間的な束縛のみならず、時間的な束縛も消え失せるという。彼らは、「自分」がこの肉体ではなく、当然この肉体を脱いだ後も存続するものであり、この肉体以前にも存在していたことを確信している。それは確信というよりは知っているという類のもので、目の前にある本や机に劣らない、それ以上にリアルなものだという。
『理性のゆらぎ』 青山圭秀 三五館 P45
ヨーガやその他の修養によって心身を高めたある種の人々について、著者が伝聞調にまとめたものである。その後、「確信以上の事実」であることを立証するような事例に出会うことになるが、「目の前の本や机よりリアル」って、どうしたらそんな風に実感できるのであろうか。こういった文章は、ちょっと読者を引きつける扇動的な効果をもたらす。私はそれに、ますますはまってしまう。
化身の伝説
ヴェーダによれば、この世界には、もともと唯一無二の存在、在りて在るもの、まさに存在そのものが存在したという。これが「神=ゴッド」の概念に近い。そしてこの存在が自らを意識し、何かを意思した時、全くの静寂だった存在に“ゆらぎ”が生じた。その最初のゆらぐ波動から、さまざまな多様性をもった現象界が現れ出たというのである。それがこの世界であり、その最も粗雑なレベルが物質である。
ところが不思議なことに、こうして多様となった存在の個々は、自らがもともと唯一無二の存在であったことを「忘れた」。この忘却(プラッギャハラ)こそが、この世のあらゆる物語、全ての悲劇と喜劇の始まりと言ってよい。そこから、見かけの善と見かけの悪という二元性が生じ、もともとの唯一性を忘れた存在が、それを思い出すための旅が始まったのである。それは、粗大な意識から精妙な意識へ、存在の表層から存在の深みへと向かう流れであり、逆に生命の形態としては、単純なものから複雑なものへと向かう流れであった。ここに、生命の連続性(輪廻転生)という概念が、不可避のものとして現れる。その中で、連続する個々の生命は、過去に行った行為の果実を自らが享受し、教訓を学び、成長していく(カルマの法則)というのである。
『理性のゆらぎ』 青山圭秀 三五館 P80-81
二元論や、輪廻転生、カルマの法則を非常に分かりやすく説明していると思う。もともと唯一無二の存在だった。我々はその派生形だとすれば、もとは一つでつながっている。だから自分自身の存在自体が、何よりも偉大であるということに帰着する。それは、精神世界について、話している多くの人の意見と近しい。
ただ、「存在していること自体が偉大」という考え方だけで、この世の中を生きていけるほど、悟っている人は少ないと思うし、自分もとてもそこには到達できない気がする。また、さりげなく書かれているカルマというものも、過去自分が行った行為だと言われたら記憶がないのだから、どうしようもない。どうやって今世でそれを解消できるのかに関心が向かわざるを得ない。
サイババとの邂逅
それらの体操や瞑想は、私にとって、今や欠かせない日々の楽しみとなっている。そして、彼らに対する私の感謝と尊敬の念は、今も昔も変わらない。しかし、あつかましくも、私が心の奥底で求め続けていたのは、真実の全てであり、その体現者だった。当たり前かもしれないが、そういうものには簡単にめぐり会わなかった。
『理性のゆらぎ』 青山圭秀 三五館 P99
これは、いままで出会った人たちの多くは立派な先生方だったという流れに出てくる文章である。私がわざわざ引用したのは最後の一文にある。今の自分も全く同じである。言い方を少し変えるならば、「本物に出会いたい」となる。そして、あつかましくも、自分が「本物の仕事をしたい」のである。
昔、会計士受験に一度失敗したとき、当時Wセミナーという塾の社長をしていた成川豊彦という、受験界では一定の知名度のあった名物おじさんがいた。
試験に落ちた後、私は成川氏の本を読んで感動し、会いたいと思って会社に電話を掛けた。本の最終章が、「どうしても受かりたい人は、本書を持って、私に会いに来い!」だったからである。当然本人は出るはずもなく秘書が出たが、秘書が日程をアレンジしてくれた。
そのとき、「この本を読んで君は何が一番感動したのか」と聞かれた。今でもよく覚えている。そのとき、私は、「人生は、本物を探す旅である」という章を指し示した。それを聞いて、「ふーん、君はここに感想したのか。珍しいな。」と言った。それから、「ここに感動する受験生はほとんどいない。君は試験に合格して、自分にとって本物の仕事を見つけなさい。」と言われた。
あれから20年が経過した。未だ変わっていないではないか。でも、本物を探し続けている自分という存在は、あのときも今も何も変わっていない。ならば、探し続けるしかない。
青山氏はこの本を書いたとき、34歳だった。なんと、私が成川氏と会ったときと同じではないか。
この日サイババは、「無私の奉仕」の重要性をことさら強調した。彼は言う。
『理性のゆらぎ』 青山圭秀 三五館 P104-105
「祈ってくれる唇は尊い。しかし、助けてくれる手は、さらに尊い」
また、いわゆる瞑想やヨーガの重要性を認めたうえで、次のように言った。
「それらは、心を落ち着かせ、健康を増進し、命を二、三年延ばすかもしれない。しかし本当に重要なのは、こうして余分に生きた年月を何に使うかなのだ」
これなどは、インドの瞑想を十何年も続けながら、特に誰の役にも立っていない私などにはすこぶる痛い。サイババは、このカリユガの時代にあっては、悟りを開くために山に籠ったりする必要はないという。そして、われわれのように世間に生きるものは、祈ったり瞑想したりするだけではなく、実際に社会に貢献することが大切であり、またそれが、最も早く成長する道だと説くのである。
瞑想とヨーガは大事、でもそれ以上に無私の奉仕が大事だという。ただ、ここでいう無私の奉仕は、ボランティアを意味するものではないだろう。世の中で人の役に立つということだと思う。
世の中のほとんどの人が、社会に貢献していると思う。むしろ、祈りや瞑想に時間を使っている人は少ない。なので、このくだりを理解するのはなかなか難しいのである。私はバランスだと考えた。祈りや瞑想にしっかり時間を使いながら、そこで気づいたことを世の中に還元していくということではないか。そして還元するに当たり、お金を放棄する必要はないのである。そんな風に考えた。
しかしその一方では、サイババに祈り、ビブーティを毎日飲み、あるいは、苦労してプッタパルティにまで行きはしたが、ついに病気は癒されなかったという人も、たくさんいるに違いない。その違いをわれわれはどのように解釈すべきなのだろうか。
『理性のゆらぎ』 青山圭秀 三五館 P114-115
(中略)
このサイババの答えは、自然の摂理の厳しさや恐ろしさを、あらためて想わせるに十分である。
ヴェーダは教える。われわれが何をしようと、何を想い、何を言おうと、それに相応しい報酬が確実に本人に返るのだと。おそらく、そのうちのあるものは、今生の過去ではなく、過去世においてなされた行為である。そして、われわれは、それらをまず覚えてはいない。(中略)しかし、納得するしないに関わりなく、「カルマの法則」はたんたんと成就する。それは何のためか。われわれに理解できる範囲では、おそらく、正義の遂行のためであり、さらには、本人に対する深い意味での教訓のためなのである。
(中略)
カルマの法則は、正確に生成粛々と成就する。しかし一方では、「神の恵み」がそれをも凌駕し、それに優先するとヴェーダは教える。そして、人はそれを、奇跡と呼ぶ。
もともと、カルマの法則が正確に成就するとすれば、それははっきり言って奇跡である。この複雑怪奇な具象の世界で、全てに公平な正義が遂行できるなどということがあるのなら、私にはそれは奇跡としか思えない。しかし、ここでいう「神の恵み」はそれをも凌ぐ、奇跡なのである。
これは、カルマの法則があるので、神が勝手に手を出すことはできない。でも、それでも「神の恵み」はそれを凌駕する。つまり奇跡というものが起こるというのだ。ここは感覚的にすんなりと入った。ただ、理論的に説明することはできない。カルマの法則がすべてではない、そこに縁があり運があると言ってしまうと陳腐に過ぎるだろうか。ただ、そういった救いがないと、我々の人生はうるおいはなくなってしまうような気がする。
目撃
ある意味ここが本書のクライマックスの一つであろう。著者は奇跡的に、サイババに手招きされてインタビュー・ルームに入るのである。
「もともと形のない神が、なぜ人間の形をとったか、その意味をよく考えなさい。人間の知性は、絶対的で属性のない神の原理を直接把握することはできない。神は無相であり、言葉や心、知性の及ぶ範囲を超越しているのだ。
『理性のゆらぎ』 青山圭秀 三五館 P128-129
人間が本来神聖なもので、神と一体であるという忘れられた真理を思い出させるために、私はこうして人間として生まれた……」
誰一人、言葉が出なかった。
しかし、それではなぜ、全能のはずの神の化身は、この世界の苦しみや悲惨を全て取り除いてはくれないのであろうか。世の中には、飢餓に苦しむ人がいて、紛争や戦争で苦しむ人がいて、そして多くの善男善女が日々苦しんでいるというのに。
これこそ、幼い頃から、この世界に対して抱きつづけた私の本質的な疑問の一つだった。しかし再び、私が口を開く前にサイババは続けた。
「多くの人は、無邪気に、なぜ全能の神の化身がこの世界の飢餓や悲惨に寛大でいたれるのかと問う。神の化身は、それらを一瞬のうちに消し去ることができるはずだと。
(中略)ただし、いつでもその力を見せようとはしない。特別な場合に、それに相応しい相手に対してのみ、そうした力を見せるのだ。このような神の化身は、何千年もの間この国に生まれて来たし、人々の間で生まれて来たが、人々がそれを十分に理解することはなかった。
救済の事業においては、人間の側から行動が起きなければならない。それをせずに神の化身にただ苦しみだけ除いてもらおうというのは愚かなことである。たとえ私が、この世界の苦しみを全て取り除いたとしても、人類が変わらなければ、わずかな期間でまた元の木阿弥である。」
ここは多くの人が同様の疑問を持つところだと思うので、長いが引用させてもらった。神の力で強制的に苦しみや悲惨を取り除いても、人類が変わらない限り、長続きしない。ということと理解した。
なるほどそれは分かるとしても、全知全能の神ならば、木阿弥になる前に、また力を行使すればよいのではないかとも思う。そもそも神の分身であるとする人間が、どうしてこのような苦しみや悲惨さを生み出すのか。やはり二元論なのか。対局の概念を創出してしか、楽しい、うれしい感情を味わうことができないということか。
幽玄の星の科学
個人的には、このインド占星術の章が大変興味深かった。残念ながら、氏は巻末にこのように記している。「残念ながら著者の知るかぎり、現在日本には、正確なインド占星術を行える人はいません」と。
氏はインド占星術師2人に会うのだが、いずれも大変鋭い予言をするのである。
「カルマの法則は、確かに目には見えない。この目で直接見ることはできないけれでも、その結果ならいつでも、そしてだれでも見ているんだ。表現的な現象から何を見るのか、それは各人の心の鋭さ、洞察力の深さに依存している。そして、鋭敏な感性と深い洞察力を持った人には、法則自体が見えるし感じられるんだ。それは、そういう人にとっては、こんな目の前の本や鉛筆よりももっと現実的な現実なんだ」
『理性のゆらぎ』 青山圭秀 三五館 P244-245
(中略)
「なるほど、そのためにはいい先生につかなくちゃいけない。でもそれは、西洋科学でも同じように大切なことだよね。次に、その結論が正しいかどうかは、さっきも言ったように、検証すればいいことだ。言うまでもなく、占星学もアーユルヴェーダも、再現性があって、検証することができるよ。」
(中略)
「カルマの法則が占星学の根幹であるとすれば、神の存在や宇宙論はそのまた根幹を成す認知と言える。それらは、確かに直接証明することはできないけれども、彼らはそれをセットで認知するんだよ。我々が直接検証できるのは、そのうちのもちろん一部でしかない。でも考えてみれば、物理学においても、検証できるのは法則自体ではなくて、そこから出てくる事例なんだじゃないのかな?」
これは占星術師とのやり取りではなく、インドで知り合った勉強仲間であるシャシクマールとの会話である。インド占星術に対するリスペクトと、その分野を物理学と比較して同等のものであると言い切っている。
実際、氏が占ったもらったことには、本人すら忘れていた真実が含まれていたのである。占星術師が三人兄弟だと言い張る。本人が二人兄弟だと言っているのに。実は、青山氏本人が実の姉がいることを4、5年前まで知らされていなかったのだ。だから、氏はそのお姉さんを実姉であることを忘れていたのだ。
終りに
私は本書を27年ぶりに読んだ。当時むさぼり読んだ記憶がある。今読んでも、一向に色あせていない。それはなぜなのだろうか。おそらく青山氏の神秘に対するスタンスが中庸だからであろう。感性にどっぷりはまることもなければ、科学者として、奇跡現象はもちろん、東洋医学やインド占星術といったものを胡散臭いものとして、一歩的な目線で見ることもない。
また、改めて読んでみて、文章が実に上手いと思う。理屈っぽいことを簡潔に言える文才はすごいと思う。だから読んでいて疲れない。
本書を読んで、輪廻転生を確信するのであれば、やはり自分の過去はそして今世の未来はということが気になってくる。これに答えるがごとく、著者の次作のタイトルは「アガスティアの葉」であった。