2021/6/23 授業参観に行って思うこと

ぎばーノート~ギバー(Giver)という生き方の記録

6月23日、次女の授業参観があった。フリーランスの私は、前からこの日の午前中をブロックしていた。

朝一番の授業は8時台だ。時間が十分にある私は、早々に学校に着いたのだが、次女の教室に行っても誰一人父母がいない。中に入るのは躊躇して外からのぞいた。

「公開授業」

この学校の素晴らしいところは、「公開授業」と称して、全学年のすべての授業を公開していることだ。自分の子供がいる学級以外も、自由に見ることができる。そのため、最初の1時限目は、外からいろんな授業をのぞいた。

また、多くの授業を循環してみたくなる理由が他にもある。中学の授業は、生徒が問題を解くための時間、あるいはグループで討論する時間などが、たっぷり用意されているのだ。だから、1つの授業だけをみるのは、ちょっともったいない気分になる。

さて、授業をみながら思ったことがある。

これは過去の公開授業を見て以来、一貫して感じていることだが、「学校というところは、この40年近く、時が止まっている」ということだ。誤解を恐れずにいうと、多く先生の授業が、自分が中学校のときに教わったやり方と、あまり変わっていないのだ。

黒板

黒板に板書すること。これが基本的に全く変わっていない。
今は、さすがにパソコンを使っての投影授業も行われている。しかし、実際にパソコンを使って授業をしている先生は少数派だ。

2001年から2003年にかけて、会計士受験のため、TACという予備校に通っていた。そのときも、黒板を使っての授業であったが、もう少し手元資料が充実していた気がする。テキストに加えて、講師が自分で作ったまとめ教材を配って授業を進めていたので、何もかも黒板に書き写すことはなかった。

言いたいことは、黒板の否定ではない、また生徒へのPC等の供与でもない。黒板が所与で、それだけで授業を進めている先生が多数派という点なのである。

黒板に字を書くと、それだけで時間を費やす。そして、その板書は授業後には消されてしまう。違うクラスで同じことを話すから、また同じことを板書して、それもすぐ消される。こんなに効率の悪いことってあるのかなというのが、現代人としての素朴な感覚だ。

45分間の授業をいかに楽しく充実したものにするかは、その先生の力量が問われるところだと思うが、もっと事前に配る配布物を充実させ、パソコン投影も利用して、書き写す時間を減らせば、例えば社会科であればいろんな印象に残るエピソードなどたくさん話せるし、教科書に書かれていないその事象が起こる背景や社会情勢なども補足できる、教科書にはあまり書かれていない経済や文化の話もできる。

そんな授業ができれば、生徒の一部はもっとその科目に興味を持つし、一部の生徒の今後の人生にもっと強い影響力を与えることができるのではないか。そんなことを考えた。

少し前に、完全に学校が休みになった期間がある。緊急事態宣言の第1回目の発出の前後の頃である。あのとき、やむなくオンライン授業が行われた。各先生工夫を凝らして、オンライン授業を行っていた。
そのときに多くのヒントを得たと思うのだが、今のリアル授業に生かされている気があまりしなった。元に戻ってしまった印象だ。

iPad、ノートアプリ、リンク、YouTube

ならば、自分が先生だったら、どんなツールを使って授業をするのか。まず思いつくのが、iPadを使って授業のための教材をノートアプリで作る。これは手書きである。あるいは、パワーポイントで作成し、説明しながら、アニメーション機能を使って、順次関連箇所を映し出す。中に信頼できるサイトのリンクを埋め込んで、必要に応じてそちらに飛んでみる、YouTubeなどの動画のリンクがあっても面白い。

最後に英語ネイティブクラスの授業の感想を。帰国子女を受けいれている学校なので、帰国子女の英語の授業は別枠で行われている。そこは完全に異次元の世界である。
まず、一番驚いたのは、朝1限目であっても、父母がびっしり後ろにいた。なぜか椅子があって皆父母が座っている。そのせいか途中で離席しようとする父母がいない。

そして、生徒のプレゼンが、全然聞き取れない。そのプレゼンに対する質疑応答や感想も聞き取れない。先生がする質問が、きれいな発音なのでかろうじて分かる程度だ。
これには、毎回ショックを受けるが、自分の英語力は全然その程度なのである。