2021/6/20 台湾ボイスを聞いて

ぎばーノート~ギバー(Giver)という生き方の記録

林建良さん

台湾ボイスというYouTubeチャンネルがある。これは国際政治学者の藤井厳喜さんと台湾人のお医者さんの林建良さんによる、台湾の視点から、最新の国際情勢を分析・解説した動画サービスのプロモーションチャンネルである。

各動画の下にリンクがついており、それをクリックすると、ダイレクト出版がプラットフォームを提供している会員制の有料サービスの申込書に飛ぶ仕組みとなっている。

6月20日に、台湾ボイス開設1周年記念のオンライン講演会があった。こちらを申し込んだところ、当日までに少し時間があるため、1年半前に行われた「『ONE TAIWAN』プロジェクト シンポジウム」の講演録が動画で送られてきた。

6月20日の講演会は有料のため、ここですべてを明らかにできない。一方、1年半前に行われたシンポジウムも有料であったようだが、時間が経過しているのと、現在有料で販売していないようなので、ちょっとその中身を紹介したい。

林建良さんの「台湾人が見た台湾と日本」という55分にわたる講演が非常に感動的であった。台湾ボイスの会員となっている自分は、すでに多くの彼のビデオ動画を見ているので、客観的に比較することができるが、この林さんの講演会は、非常に熱くて前のめりで、聞いている方がときにハラハラしてしまうものだった。ただ、その分だけ、彼の言いたいことが、バシバシ刺さって来た。

林さんは日本在住30年の台湾人でお医者さんである。中国政治の情報収集能力は非常に高く、その分析と洞察は、他の国際政治のフィールドで活躍する他の論客と一線を画している

講演は冒頭、「人間はある程度の年になってくると、一つのことが分かってきます。我々の人生を大きく左右するのは、実は出身でもなくて、学歴でもなくて出会いなんです」から始まる。

林さんは台湾にいたときには、後藤新平の名前も児玉源太郎の名前も新渡戸稲造の名前も八田與一(※)の名前も聞いたことがないという。反日教育を受けてきた世代である。

なのになぜこんなにも親日なのか。
親から聞かされたのは、「昔の日本人は、学校の先生と警察官は怖かった」だった。でも、いろいろ教えてくれたのだという。

日本精神

台湾には、日本精神という言葉がある。「あなたは日本精神を持っている」というのは評価の言葉だ。日本精神とは、我々台湾人が、学校の先生と警察官から学んできた4つの要素だという。

読者のみなさんは、何だと思われるか。

1つは清潔感
1つは規律
1つは正義感
1つは冒険心

これ以上解説するのは野暮かもしれないが、もう少し書いておきたい。

清潔感は、外部だけではなく心の中の清潔も含まれる。清らかな気持ち、穢れのない生活を教えてくれた。規律は、法を守る順法精神。正義感は武士道精神の原点。冒険心がなければ、高く険しい山が連なる未開の地に入り込んで、原住民を感化し教えることはできないという。

台湾人の好きな日本、親日感情の原点は何か。それは尊敬である。
台湾人がなぜ親日なのか。台湾人が尊敬しているのは、普段の一般の日本人の気質なんです

我々の2・3代前の日本人は、こんなにも誇らしいことを他国に施し、今でも消し去ることのできない尊敬の念を、他民族に植え付けたのだ。そのことを、生身の台湾人医師が、今の日本人相手に熱く語っている。心に響かない日本人はいないであろう。

これは講演の前半の部分であり、全体を通してただ単に日本人を礼賛している訳ではない。後半は、台湾の日本に対する片思いを、切々と訴えている。特に、1972年以降日本は台湾を外交上、国家として認めなくなった。

まもなく日中国交正常化50年を迎える。日本はこれから非常に難しい選択を迫られている。

留学時の実感

さて、少し自分の体験を記載しておきたい。1995年1月から5月、語学留学で4ヶ月強台湾の台北市に住んだことがある。

林さんが言う、台湾人は親日家というのは、実感として100%正しい。台湾人は私に対して、銀行であれ、レストランであれ、語学学校の先生であれ、タクシーであれ、どこにおいても優しかった。

それと、1つのエピソードを紹介したい。ある日、クリーニングでちょっと困ったことが発生したので、1階にいる守衛さんに頼みことをしたことがある。具体的にどんなお願いをしたか忘れてしまったが、事前になんていうか調べて片言の中国語で話した。

相手は、じっと私とみて、それから私より流ちょうな日本語で、返答してきたのだ。その日本語があまりに自然で、100%と日本人と同じだったので、私は固まってしまった。なぜこの人は日本語がこんなに上手いのかと。

それは、本当に愚かなことであった。
完全に戦後生まれの自分は、第二次世界大戦敗北まで50年間、日本が台湾を支配していたことを、歴史で知っていたものの、その事実は、単に大昔の話だと思い込んでいた。

1995年の50年前が1945年だ。あの守衛のおじいちゃんはいくつだったろうか。多分70才ぐらいだったであろう。65才かもしれない。とすると、20才少なくとも15才まで、日本語を母国語として学んだ人だったのである。

私は、その後香港、そして中国大陸で働くことになるが、あのようなネイティブ・ジャパニーズに会ったことは一度もない。それは、香港も大陸も日本が支配したことがない地域なので当たり前のことだが、それだけ台湾は特別な地域なのである。

あのとき私ははじめて、歴史というものの(今に至る)連続性というものを知ることができた。

そして、林さんの話を聞いて、おじいちゃん、ひいおじいちゃん世代の誇り高い日本精神を少しでも見習わなければと、強く思う。

後藤新平、児玉源太郎、新渡戸稲造、八田與一

※以下、人物については、リンクのWikipediaを参照。

後藤新平:台湾総督府民政長官他(在台湾1898-1906)
児玉源太郎:台湾総督府総督(1898-1906)
新渡戸稲造:台湾総督府臨時台湾糖務局長他(在台湾1901-1904)
八田與一:台湾総督府勅任技師他(在台湾1910-1942)

ちなみに児玉源太郎の前は、1年4ヶ月と短いが、乃木希典も総督になっている。あの時代、なぜこれだけの精鋭が台湾に集結したのか、非常に興味深い。
(在台湾の年数は、ネット検索した結果の推測であり、出典はWikipediaではない。)

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