伝記・歴史・地理★★★
紹介文
「知の巨人」と言われた学者であり評論家である著者の最晩年の著書。日本の歴史上、著者が大切だと考える事件を取り上げ、時系列にコンパクトにまとめている。歴史を通じてどう考えるかが提示される。特に大正以降の記述には、後世に何としても残しておきたいという魂の叫びが刻まれている。
きっかけ
これは私の書棚に積まれていた書籍である。何という気もなく読み始めた。理由を敢えて上げれば、YouTuberの及川幸久さんが、「知的正直さ」を大切にしており、それは渡辺昇一氏の著書『知的生活の方法』から学んだことであると言っていたことや、正しい歴史認識を持つことがますます重要だと感じるようになったからである。
構成と特徴
新書版見開きで1テーマ、たまに3ページと絵付きで1テーマという構成で、歴史上の事件が時系列に並んでいる。
そのテーマの概説と、取り上げた意義、ご自身の解釈などが、決められた字数のなかで見事に記されている。
例えば、712年(和銅5年)・720年(養老4年)の『古事記』『日本書紀』成立では、以下のように書かれている。
『古事記』『日本書紀』は先の敗戦まで日本人の歴史観の根底をなしていた。現代において神話を事実と考える人はいないだろうが、しかし、それを信じた人たちが日本を動かしてきたのだということはしっかり認識しておくべきであろう。
『読む年表 日本の歴史』 渡部昇一 WAC P37
神話に関して、中高の授業で習った記憶がない。だからなのか、神話に興味を持ったことがなかった。最近では『ホツマツタヱ』などの解説も聞くことができるようになったので、少し勉強してみようと思う。
平家滅亡、源氏政権の終焉、北条氏の執権政治
源頼朝の弟義経の武勇伝が語られている。一ノ谷の戦いは教科書で習ったが、「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」は知らなかった。わずか七十騎の兵で、背後を突いて平家陣営を壊乱せしめたという。
平家が滅んだのは、源氏の嫡男である頼朝を「平治の乱」で生かしてしまったことだという。それも、平清盛の義母池禅尼が助命を懇願したからというから、歴史は本当に分からない。
源氏は、京都と宮廷に人気のある義経を始め、兄弟を皆殺しにする。将来の政敵を排除するためだろう。ところが、嫡男の頼家が殺され、弟実朝は頼家の子公暁によって殺されてしまう。これにて、源氏は絶えてしまうのである。
本書は、北条氏のところで突然、「フィギュアヘッド」と「キングメーカー」という話が出てくる。フィギュアヘッドは船首に付ける飾りの彫刻像であり、皇室を意味する。北条氏は、源氏に変わって将軍職には就かなかった。自らは執権としてキングメーカーに徹したのである。
なお、後鳥羽上皇の討幕が失敗に終わった承久の乱を、日本における第三回目の「国体変化」と位置付ける見識や、御成敗式目の制定を以って日本は「二重法制」の国になったという洞察はまさに慧眼であり、私も歴史を通じて、このような俯瞰思考を身に着けたいと思う。
元寇
副題に、「日本の国難を救ったのは『神風』ではなかった」とある。
文永の役については、指揮官の息子が敵将を矢で馬から射落としたことで、元軍が船に引き揚げる。その夜嵐が起こり多くの船が沈んだことから、「神風」は当時の実感としてあったのだろう。
ところが、時の執権北条時宗は、再び攻めてくることを予測し、全国の御家人に呼びかけて博多の守りを固めた。数年間の準備期間を経て今度は十数万の大軍で攻めてきた。それが弘安の役である。2か月にわたって激しい戦いが展開され、堅固な海外防備と日本軍の果敢な攻撃により、元軍を長期間の海上停泊にさせたのである。再び大暴風雨が起こり、海上の元軍は全滅したという。
この話は、白駒妃登美さんからも聞いた。歴史研究家で日本各地を回っている彼女は、博多にある「元寇史料館」を訪れて、日本軍が勇敢に戦った末に勝ち得た勝利であることを知ったという。
本書には書かれていないが、北条時宗は32歳で生涯を閉じる。元寇の対応のために生涯をささげた人生であった。
逸話とその解釈
足利義満の急死
義満は自分の子を天皇にして、自らは太政天皇になろうという野心を抱いた。後小松天皇の生母が重い病気にかかると自分の妻を天皇の母(准母)とし、自分の子義嗣を天皇の養子としたのである。ところが、義嗣の元服式直後に義満は急死した。
「天佑神助」と言う人があってもおかしくないと、結んでいる。
文禄の役~秀吉、明の国使を追い返す~慶長の役
著者は、一連のこの事件に、それぞれ3ページを使って、3章を費やしている。明らかに熱がこもっている。以下は文禄の役からの抜粋である。
朝鮮に上陸した日本軍の快進撃には目を見張るものがあった。天正二十年(文禄元年)四月十二日、釜山に小西・宗の軍が上陸した。その翌日には釜山城が落ち、翌十四日には東莱城が陥落。二十六日に慶州、五月三日には京城(漢城)を占領した。朝鮮国王宣祖はすでに京城を脱出し、高級官僚たちも妾を連れてみんな逃げてしまった。六月十五日には平壌城を占領。日本軍に進軍のあまりの速さに、明では朝鮮が案内をしているのではないかと疑ったほどだった。
『読む年表 日本の歴史』 渡部昇一 WAC P116-117
ところが水軍がひどかったらしい。食糧を補給する船がなかなかやって来ない。日本は朝鮮の冬に対応できなかった。それでも陸軍は一度しか敗戦していないというからおどろきである。
秀吉は負けたと思っていない。7つの講和条件は、とても仲介者が明の皇帝に伝えられるものではない。一方、小西行長らも明の条件を秀吉に伝えることができない。かくして交渉は一向に進まないどころか、とんでもない嘘の応酬となる。
さて、交渉は決裂し再度朝鮮出兵が行われる。慶長の役も、島津の活躍などがあり善戦した。明はヌルハチとの戦闘が相次ぎ、財政は窮乏していたため、日本が勝つ可能性もあったという。
ところがここで秀吉が病死するのである。これで日本は朝鮮から引き揚げることになった。7ヵ条の講和条件の一つには「明の皇女を日本の天皇に差し出すこと」があったというから、日本が勝っていたらどうなっていたのであろう。
ちなみに、明は慶長の役の二十八年後に滅亡している。
赤穂浪士の吉良邸討ち入り
ここは引用だけにする。
アメリカ軍が日本を占領していたとき『忠臣蔵』を禁じたのは、日本人は非常に復讐心の強い民族だと思っていたからではないだろうか。アメリカには原爆を落とした負い目がある。東京裁判ではアメリカ人の弁護士も「原爆を落とされた以上、日本人には復讐権がある」と言っているから、日本人に仇討の気分を起こさせないように『忠臣蔵』を禁止したと思われる。
ところが、日本では仇討が頻繁に行われていたように思われがちだが、実際はめったになかったというのが本当のところらしい。
『読む年表 日本の歴史』 渡部昇一 WAC P145-146
大正昭和編
ここでは、著者が調べた事実を中心に、私がほとんど知らなかった史実について触れてみたい。
盧溝橋事件~通州事件~第二次上海事変
戦後になって分かった重大な事実は、盧溝橋事件は、日本軍と国民政府軍の衝突を意図的に作り出して中国共産党が「漁夫の利」を得ようとしたものであった。国民政府軍の中に中共軍のスパイが入り込んで発砲したことは、中国側の史料で確認できる。
「通州事件」は、その事件自体ほとんどの現代日本人は知らないと思う。シナ人の保安隊による大規模な日本人虐殺事件である。中国兵は婦女子に至るまで、およそ人間とは思えぬような方法で日本人を惨殺したという。
「上海にいた日本海軍陸戦隊四千名に対して蒋介石軍は正規軍十個師団五万人を配置し、日本総領事館と商社の電話線を切断し、多くのシナ人を含む一般市民が逃げられないように道路をすべて封鎖したうえで民間人がいるに決まっているホテルなどを爆撃した」という。
第一次教科書問題
1960年の新安保条約成立から、22年経過した1982年のこの事件を取り上げている。
まず、中国華北への「侵略」が「進出」に書き換えられたという新聞報道は誤報であった。にもかかわらず、宮澤喜一官房長官が、「近隣の諸国民の感情に配慮した教科書にする」という主旨の発言をし、「近隣諸国条項」が教科書検定に設けられるようになった。
宮澤喜一氏は首相就任後、天安門事件後の中国の要請に従って、天皇陛下の訪中を決めてしまった。
東日本大震災
本書は、2015年1月に上梓されている。著者は84歳である。その2年後にお亡くなりになっている。最晩年に著者が伝えたかったことが、この最後の章の最後の文章に表れている。引用して終わりとしたい。
オカルト的な話は別としても、自衛隊や警察を敵視しながら成長して政治家になった人が首相になると大天災が起こることについて、偶然の暗合とか、ジンクスという言い方は許されるであろう。これから我々日本人は、少なくとも国旗や国歌を尊重し、靖國神社に参拝するような、そして国を護る自衛隊や海上保安官、治安を護る警察官を尊敬する人たちだけを選挙で当選させなければならない。為政者が天の怒りに触れると、犠牲になるのは国民なのだから。
東日本大震災の被災者の方々に心からご同情申し上げ、一日も早い復興を祈るばかりである。
『読む年表 日本の歴史』 渡部昇一 WAC P279
