『生きとし生けるもの』 山本有三著 新潮文庫 1955年1月(絶版)

バブル世代の書評ブログ

文学★★★

紹介文

周作はダイナマイト点火後、炭坑の底に取り残された。全滅を避けるため親父は涙を飲む。夏樹は、偽の電報ガワセに便宜を図り、銀行に大きな損失を与えた。精一郎が手にした待ちに待ったボーナスは、人事担当の支給間違いであった。光を求める存在としての人間を描いた山本有三の初期の小説。

きっかけ

私は少年時代、山本有三の作品に傾倒した。40年以上が経ち時代は変わった。もはや山本有三という名前は聞かれない。娘に聞いても知らないという。

私は、この本に大変な感銘を受けたことだけを覚えている。最初に読んだ本が『路傍の石』でラストで大泣きした。次に『真実一路』を読み、自分の親がもし本当は生みの親でなかったらどうしようと思い悩んだ。

本書はその次に読んだことだけは確かだったが、つい先日、実家に帰ったら、読書感想文集を発見した。中学3年のとき、学校代表で選ばれたのが、私が書いた『生きとし生けるものであった』。

読んでみるとなかなかよく書けている。もしかしたら、自分は40年間何も成長がなかったのではないかと思うほど、過去の自分に同調した。

無性に読みたくなった。でも少し前も確認して出てこなかった。Amazonではとんでもない金額でしか出品されていない。

ほとんど諦めていたのだが、念のためと思って実家の本棚を片っ端から探したら、一番奥の端に残っていた。私は実家から持ち出して、むさぼるようにして読んだのである。

作者のことば

(中略)この世に生きているものは、なんらかの意味のおいて、太陽に向かって手を伸ばしていないものはいない、と思います。一木一草はもとより、アメーバーのような微生物から人間に至るまで、太陽に対してできるだけ広い座席を取ろうとして、争っています。おそらく、物質的にも精神的にも、光を求めることが、生きとし生けるものの本性ではないでしょうか

しかし、お互いにより多くの光をあびようとする結果は、あるものは、光を得て栄え、あるものは、それが得られないで衰えてゆきます。同じ生をこの世に受けながら、乏しい光しか恵まれないために、やせ細った人々がたくさんあることを思うと、胸が痛みます。

(中略)

「生きとし生けるもの」という題をかかげましたが、もちろん、生きとし生けるものを、ここに書きつくせるものではないことは、言うまでもありません。この小説にあらわれてくる人物は、限られた少数の人々に過ぎませんけれども、作者は、それらの人々のあいだにかもしだされる事件のなかで、標題に通ずる何ものかにふれてみたいと思います。

『生きとし生けるもの』 山本有三 新潮文庫 P5-6

冒頭に作者が書いたはしがきである。すべての生命は「光を求める」。ここに著者の生に対する肯定的な姿勢が表れている。一方で、生存競争の中、敗れしものもいることを、著者は強烈な問題意識として認識している。これが、この小説の素材の一部を構成しているのは言うまでもない。

大正という時代背景

私のような昭和40年代の生まれの人間にとって、「周作」と題した章に描かれている世間というものは、十分に理解できる。

周作は及川という坑内の係り長むす子とけんかをして帰ってきた。ところが、父おやは「きさまがわるいんだ。」と一喝されるだけでなく、周作を連れて及川の家に行く。「周作の父おやはバッタのように腰を曲げて、ひらあやまりにあやまった。」のである。

権力には勝てない理不尽さがこの世にはある。でも、今の時代からすると、さすがにこの光景は滑稽に映るのかもしれない。山本有三が流行らないのは、このあたりに理由がありそうだ。

一方で父親の子に対する愛は、力強く読者の胸を打つ。そこは是非とも読んで味わってほしい。(絶版といえど、今の時代、中古本はネットで比較的容易に手に入る。)

父親の人間力

周作は坑底で奇跡的に生き残った。それから遠藤という老技師が資金援助することになり、勉強に明け暮れた。東大で採鉱冶金科を出て技師長になり、台湾に飛ぶ。老人は今や鉱業会社社長でもあり銀行の頭取にもなった。

周作の子である夏樹は今でいうボンボンである。頭取の息子として、若くしてカワセ次長だった彼は、課長が不在の間、照合がされない電報ガワセに対して、臨機応変な処置をして、銀行に大きな損害を与えることになる。

父おやはその日に限って早く家に帰っていた。

「――そんなに気にすることではないじゃないか、それほどでもない事に。」

(中略)

「けれども、そう言うのは、それはおとうさんが、ぼくを自分の子だと思うからです。もし、ほかの者が詐欺にかかったのだったら、どうです。ほっておきますか。」

「(中略)しかし、おこったのでは人はけっして使えるものではない。ただおこってみたところで、しかたがないではないか。ことに、君は自分の過失を充分に認めているのだ。そうであれば、そのうえ何も言うことはないではないか。過失は誰にだってある。わたしにもある。わたしなんか若い時には、そりゃひどい失敗をやって。しかし、それがまた、いい薬になったのさ。」

『生きとし生けるもの』 山本有三 新潮文庫 P76

頭取と次長である前に親と子であるからこそ、このような会話になったのだと思うが、果たして私は娘にこんなアドバイスをすることができるのだろうか。人間力と包容力が半端ではない。小説なので、周作は作家による想像上の人物だが、こういった人格者を描き、読者の心を引きつけるのは作家の力量だと思う。

この後、周作が自らの失敗談を語るのだが、このストーリーがまた面白い。こういう筋書きというのは頭で考えて出てくるものなのか、誰かから伝え聞いたのか、あるいは時代背景的に容易に想像できるものなのか、作り手を意識すると大変興味深い。

伊佐早精一郎

この小説は未完で終わっている。体調不良により絶筆して残ったこの作品の主人公は誰かと問えば、私は伊佐早精一郎だと思う。

ボーナスにまつわる話の中身は、「紹介文」の数文字以上触れないが、彼の取った行動の是非は、中学校の国語の授業でテーマになりそうな内容である。

「精一郎のボーナス騒動ほど、僕を悩ませたものはない。彼の真面目な性格は、本を超えて、僕の目の前に現れてくるような、力強い作者の意図が感じられてならないのだ。結局、彼の行った言動は、どのようであったかは、あえていわない。また、彼の行った道は正しいかどうかも、僕にはわからない。(中略)僕は、まだまだ最善の手があったようにも思える。しかし、『それを言ってみろ。』と言われると困ってしまう。・・・」

これは、約40年前の自分の答えである。「分からない」と。でも悩んで一生懸命答えを探している自分は伝わってきた。途中「道」という言葉を使っているのには驚いた。

最善な手とは何か。これは素直に自白して謝ることであろう。社会人を30年以上経験して、お金を稼ぐことの大変さを知った今、精一郎の苦悩は、単なる道徳的観念だけで切り捨てることはできない。人生経験の垢のようなものがこびりついているから、余計に同情的になる。

作者は、精一郎を愚直で真面目な性格に仕立て上げながらも、むしろ自分の勇気のなさと金銭的貧困さを正当化していくことで、新しい物語に展開していく。このあたりの筋書きの発想の新奇性も大変興味深く読んだ。

沈黙のザンゲで何を伝えたかったのか

精一郎には優秀な弟、令二がいた。この弟には自分と同じ人生を歩ませたくないと思っている。来年高校受験をするには、お金が足りない。周作がそうだったように、資産家のつてをたどって話をつける算段をしていた。その資産家とは夏樹である。

ところが、令二は他の生徒と爆竹を作ろうとして爆発し、みんなケガをしてしまったのである。

「それをなぜ前に言わなかったのだ。今になって言ったって、なんにもなりゃしないじゃないか。おれは、きょう学校に呼びだされて、校長からすっかり聞いてきた。おまえは、じつにバカなやつだな。」

「じゃ、にいさんは、ぼくのやったこと、よくないって言うの。」

「あたりまえさ。せっかく学校で寛大な処置をとってくれるというのに、なぜ、あんな余計なことをするのだ。あんなくだらないことをしゃべり立てたって、だれもとくをするものはありゃしないじゃないか。」

「しかし、ぼくは、損得ずくでやったんじゃない。ほんとうのことを言うのが、正しいことだと思ったからやったんだ。」

「だから、バカと言うのだ。おまえがほんとうのことを言ったために、どんないい結果が生まれたのだ。ただ学校に騒動を持ち上げただけではないか。そうして、おまえは退学になり、ほかの生徒も処分されただけではないか。そんなことが、なんで正しいんだ。おまえがやったようなことが、もじ通り中学生の正義って言うんだ。」

『生きとし生けるもの』 山本有三 新潮文庫 P209-210

精一郎は令二に希望の光を見出していたのだ。その弟は正義感で学校の寛大な処置を台無しにした。自分がこれまでどれほど弟の犠牲になって働いてきたのか、そして事業家からの補助も見えてきたところで、弟は自らの人生をふいにしてしまった。怒りと悔しさが止まらない。

精一郎は、ボーナスの件で他人が苦しんでいるにも関わらず自白はできずに闇に葬る選択をした。一方、令二は、他人だけが犠牲になる社会的な便宜を許すことができずに声を上げた。この対比が物悲しい。

「生きとし生けるもの」という作品を通して、作者は何を言いたかったのか。人それぞれの行動に、白黒をつけるような世界観ではなく、どの選択に対しても、その一理を認めて、温かく見守りながら、人間愛を描いている。

この物語には解が呈示されていない。道徳的な誘導がない。読者各人が自分だったらどうすると、本気で考える余地が残されているように思う。それゆえに、私はこの小説に没入してしまった。

復刻版を切に期待したい。

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