こちらは、2021年4月24日に「管理人について」の詳細説明として書いたものです。いずれ、投稿ではなく「管理人について」(固定ページ)の方にまとめる予定です。
小さい頃は電車お宅でした。小学校の低学年のときは、画用紙をつなぎ合わせて全国の鉄道マップを書いて遊んでいました。また、首都圏の私鉄に乗りながら駅名を覚えることをしていました。小学校の高学年になって、星座に興味を持つようになりました。藤井旭という人が書いた本を何度も読み返して、りゅうこつ座のカノープスや南十字星の存在を知り、日本から見ることができないことを恨めしく思いました。小学校の卒業アルバムには将来天文学者になると書いています。
またその頃、親父の影響を受けて吉川英治の三国志を読みました。正直に言えば、難し過ぎてあまり分からぬまま、全8巻を読んだのですが、「赤壁の戦い」と「五丈原の戦い」だけは鮮明に覚えていて、諸葛孔明のすごさにしびれまくりました。「死せる孔明生ける仲達を走らす」という成語がありますが、この言葉が示すような中国の独特の世界観が私を魅了し、その後の人生に大きな影響を与えました。
小学校の思い出として、もう一つ大事なことがあります。自分が小学校5年生のとき、水谷豊が主演する「熱中時代」というテレビドラマが流行りました。当時の私は、塾に通って黙々と勉強し、20時には寝てしまう、真面目を絵に描いたような少年でした。なぜかこのテレビ番組の存在を知り、この日だけは22時まで起きてテレビを食い入るように見ていました。私の活動ネームは、熱中時代の主人公の「北野広大」にしようと、何度も本気で思ったほどです。このテレビドラマを見て、私は学校の先生になりたいと強く思いました。あれからもう40年以上が経過しますが、心の中でずっと学校の先生になりたいという思いは消えていません。今回会社を辞めて教育関連の仕事に携わりたいと書いているのは、ここに原点があります。
自分がどんな人間かを知ってもらうために、もう一つ書いておこうと思います。それは強いものが好きということと、あまのじゃくだということです。昭和50年に広島カープが初優勝したときに野球というものを知りました。そのため、今に至るまで熱狂的な広島カープファンです。
祖父母に家に行くと、いつも相撲が中継されていました。皆が先代の貴ノ花を応援する中、私一人、当時最強の北の湖を応援していました。
時代は少し後になるかと思いますが、テニスではサウスポーのナブラチロワの熱烈なファンとなりました。
すべてに共通しているのは、強くて人気がないことです。驚くほど一貫しています。
残念ながら中学受験は失敗に終わり、地元の公立中学校に通いました。親の配慮で地元の中でも評判のよい中学校に越境入学しました。
中学3年生のとき、運動会で長距離走を走りたいと自ら手を挙げました。なぜそのような行動に出たのか、何度思い返しても分かりません。当時、同学年には身長がおそらく180センチ近くあったバスケ部の怪物がいて、1年のときも2年のときも圧勝していました。私は立候補して選手に選ばれてから運動会までの期間、おそらく2か月程度だったと思いますが、黙々と家の周り(上野公園)を走りました。
このように書くともう結論は推測できるかもしれませんが、私は鼻の差で、バスケ部に勝ちました。私の中では奇跡でしたし、私の所属する3年A組は総合優勝しましたので、皆で大騒ぎしました。
これが私の、初めてにして生涯でもっとも強烈な成功体験です。このとき「努力は裏切らない」という考えが刷り込まれました。(努力すれば必ず勝てるとは思っていません。それでも、努力なしに勝つことは難しいと、今でも思っております。)
高校に入り、陸上部に入りました。私が通った高校は運動会が大変有名です。
中学校の長距離走で自信を得た自分は、高1から高3の3年間、スウェーデン・リレーの第4走を走りました。スウェーデン・リレーとは、第1走は1周、第2走は2周、第3走は3周、第4走は4周を走るリレーです。
そこで私は大きな挫折を味わいます。高1のとき、何と自らが内側のラインをまたいでしまい失格となってしまいました。高2のときは、第2走がラインをまたいで失格、走ることができませんでした。さて、いよいよ高3です。高2のときもそうでしたが、高3のときも下馬評では優勝候補の筆頭でした。ところが、首の差で2位となり負けてしまったのです。陸上部で長距離を専門にしている人間が2位でバトンを受けたのに、追い越すことができなかったのです。
このときの悔しい気持ちは今でも忘れることはありません。なぜかと言うと、楽に勝とうとしたからです。自分はラストスパートに自信を持っていました。なので、最初の3周はピタッと後ろにつけ最後の1周で抜けばいいと思ったのです。異常なスローペースになり、途中で後続に抜かれるハプニングもあり、最終コーナーでブロックされたまま逃げ切られました。決して手を抜いたつもりはなかったのですが、全力を尽くすことができませんでした。このとき、「何事も後悔しないよう全力を尽くす」という考えが刻み込まれました。